南郷アートプロジェクト2019|見つけに行こう、まだ知らない南郷を。

なんごうの物語

市野沢のものがたり

いちのさわ

現在の国道340号線は、かつて八戸藩主によって参勤交代に使われたルートです。この通称「上(のぼ)り街道」沿いに発達した市野沢は、南郷地域の人々にとっての〝まち〟です。八戸地域の人々の言うまちとは、〝都会〟や〝文化の中心〟といった意味合い。ちなみにアクセントは『ち』のほうにきます。そんなわけで市野沢は、田んぼも畑も少なめ、しゃれた街灯がメインストリートを照らし出す商人の地区です。時代の流れとともに数は減りましたが、それでもスーパーに電機屋に床屋、コンビニまでが、今も元気に営業しています。

EPISODE 01

ふぬけた軍国少年

金沢秀さんは昭和5年生まれ。少年時代はちょうど、日本が第二次世界大戦へと突き進む道筋と重なります。教育委員を務め地域から一目置かれる祖父、初代中沢中学校長を務めた叔父、そのほかの親戚も弁護士に公認会計士、医者、大学教授…という〝華麗なる一族〟に生まれたものの、秀少年だけは「勉強がさっぱりできなかった(笑)」。
鬱屈とした思い、あり余るエネルギーを注ぎ込むように、軍国主義思想に傾倒していきます。

欲しがりません 勝つまでは
進め一億 火の玉だ
ぜいたくは敵だ

勇ましいスローガンを掲げて戦うことこそ正義と信じ、14歳になった昭和19年、「陸軍少年飛行兵」に志願します。日本陸軍の航空兵科現役下士官になるため、選抜された10代の少年が陸軍の航空関係学校で教育を受けるのです。金沢さんも地元で一次試験を、次に青森市や東京でも選抜試験を受け、ついに合格。当時はむつ市の中学に通っていましたが休学し、入隊準備のために実家に身を寄せます。期待に胸をふくらませて、入隊のときを待っていました。

しかし、昭和20年8月。
届いたのは入隊ではなく、ポツダム宣言の受け入れによる日本の敗戦と、陸軍解体の知らせでした。金沢さんは、昭和天皇の玉音放送を茫然自失の中で聞いたといいます。
半年ほどして中学へ復学。入学当初、160数名中70~80番だった成績は下降の一途をたどり、常に最下位を取るようになりました。そんな状況にも、心が動くことはなかったそうです。
「路頭に迷うってのは、本当にあのことだと思うよ。何が起こっても何も感じない。『国のために命を捧げよ』と教えられたのに、終戦で目的を失って、腑抜けになってしまったんだね。何もかもがもう馬鹿くさくて、数年間はボヤっとしていた」
今までまっすぐに信じ、支えにしてきたものが真っ向から否定される。10代で深い絶望を味わったことが、金沢さんのその後の生き方を変えました。

EPISODE 02

好きなことから始めよう

自分は一度は死んだようなものだ。生まれ変わってこれからを生きるなら、今度は誰かの言葉じゃなく、自分の心に従って生きてみよう。
「腑抜けになっていた」数年の間に、金沢さんの心にどういう変化が生まれたのか、ご本人は語りません。しかし多分、このようなことだったのではないでしょうか。

終戦からしばらく経った昭和30年ごろに、金沢さんは小さなお店を開きました。
機械いじりがとにかく好きだったので、自分のためにラジオを組み立てて聞いていたら、欲しがる人がぽつりぽつりと現れた。そんないきさつで、ラジオ店を開いて販売することにしたのです。当時、少なくとも南郷では、完成品のラジオは手に入りませんでしたから、欲しければ部品を調達し、自分で組み立てるしかなかったのです。

部品の仕入れは東京・秋葉原から。店構えはというと、家の板戸を開けて、外から見えるところにリンゴ箱を置き、その上に組み立てたラジオを1台、2台載せておくだけのシンプルさ。
こうして、金沢電気店は始まりました。

さらに10年後。みんなが井戸からつるべを引き上げて生活用水を確保していた時代に、金沢さんはポンプを設置すれば楽に水が汲めることを知ります。使い心地を試してみたくなり、自宅に設置。そのことを聞きつけた周囲の人々から頼まれ、ポンプを設置して地下水の汲み上げを希望する家庭に配管することになりました。
またしても、自分のために始めたことが仕事になったのです。

金沢さんの仕事は、いつも「好きなこと」「やってみたいこと」が起点。そのアンテナが時代の流れにも合い、金沢さんはこの後、電気店経営を順調に切り盛りしながら商店街のために尽くしていくことになります。

EPISODE 03

握手する商売人

南郷商工会の始まりは〝ツケ踏み倒し事件〟から。ある人が、金沢さんの店でラジオの購入代金を踏み倒そうとしたのです。金沢さんはさっそく関係各所に出向き、回収を模索。すると男性は飲食代などもツケ払いにしており、被害に遭ったのは自分ばかりでないことが分かってきました。そこで、回収したお金をみんなで平等に分けることに。お金は結局、20%程度しか戻ってきませんでした。

金沢さんはこの時、商店街の店主同士の情報共有、連携の必要性を痛感。全国的にも機運が高まっていたこともあって、商店街全体でまとまって盆踊りや売り出しをするようになりました。そうしているうちに昭和35年、商工会法が施行。昭和38年6月には、中沢・島守の2つの商工会が一つになって、現在も続く南郷商工会が生まれました。発起人には若かりし頃の金沢さんはもちろん、市野沢や島守の有力者も名を連ねました。

しかし実はこれは、南郷にとってはちょっとした〝事件〟でした。なぜなら、市野沢を中心とする中沢村と、島守盆地を中心に広がる島守村。2つの村が合併して南郷村が生まれたのは昭和32年のことでしたが、その後も両地区は、お世辞にも一つといえる状況ではなかったからです。

それまで役場はもちろん、駐在所も別、農協も別。中沢村に村立の診療所があれば、島守村には開業医がいた。それぞれ長い時間をかけて育んできた独立心、地域への誇りがあるし、村民性の違いも否めない。行事でも、たとえば中沢で花火大会を開くことになれば、島守でも開く。島守で運動会をやれば、中沢でもやる。何かと張り合っていたのです。

当時は村長選挙の後、就任した新村長が旧中沢村出身か、旧島守村出身によって、執務する庁舎が入れ替わるという事態まで発生していたとか。旧中沢村出身の人が村長に就けば、旧中沢村役場庁舎を使う。旧島守村出の村長なら旧島守村役場を使う…という具合に。

そんな中で初めて、旧村意識の壁を越えて一つにまとまったのが、経営者たちだったというわけです。あれから55年。今も、南郷商工会は地域の経営者を支えています。2018年現在、約130社の小売、建設、交通、観光など、さまざまな分野にわたる会員がいます。

EPISODE 04

カメラ担いで70年、ビデオ担いで60年

金沢電気店の2階は、さながら少年の秘密基地。金沢さんが撮りためた写真、映像、カメラや編集機材、商店街の売り出しポスターにチラシ、古い地図など、市野沢の、いえ南郷の、いえいえ八戸地域全体の、貴重な資料がぎっしり詰まっています。

「カメラ担いで70年、ビデオ担いで60年だよ、私は」の言葉はダテではありません。カメラでいえば、20歳で初めて買ったニコンF、本体はもちろん領収書まで大事に取ってあるほどですから。フィルムカメラからデジカメまで、日本のカメラの歴史が収まっている棚は、カメラ好きからしたら垂涎(すいぜん)ものでしょう。

自慢のカメラで撮った写真は、世増ダムや道の駅周辺の造成、道路拡張から個人宅の新築まで、地域で行われたあらゆる工事記録。南郷サマージャズフェスティバルや地域の運動会など、規模に関わらずイベントにも必ず出かけて、すかさず撮影。小・中・高校と地元の学校行事も押さえており、「学校関係」「役場関係」などジャンルに分けて保管しています。

映像に関しても、情熱はとどまるところを知りません。自分で撮影したものはもちろん、メディアで流れたものも録画・編集・DVD化。毎朝テレビ番組表をチェックし、南郷や八戸市、青森県が取り上げられたものはすべて録画ボタンを押すのが日課です。

まちの移り変わり、起こる出来事を、とにかくすべて記録する。何がそんなに金沢さんを突き動かしているのでしょうか?

「申し訳ないけども、私は八戸30万市民の一番高いところに住まいしてますからね。ここは標高232メートルぐらい、屋上に上がると15メートル高くなるでしょ。八戸地区で一番高いのはいいけど、高いから酸素が不足しているんだよ。だからこういう阿呆が生まれてくる(笑)」
自宅兼お店の屋上から撮影した夜景の写真を眺めながら、カラカラと笑う金沢さん。撮影することが本能的なまでに好き。
ということに加えて、記録の重要性を強く感じる出来事がありました。

それは父の友人である須藤正一さんが撮影した、昭和20~40年代と思われる南郷の記録フィルムをダビングし、八戸市と南郷村の合併1周年(※八戸市と南郷村は2005年に合併)を記念して上映会を開いたときのこと。
「9.5ミリフィルムで撮ったものでね。あの頃9.5ミリフィルムの映写機といったら家1軒建つほどの値段だったから、八戸中探してもせいぜい3~4台じゃないかな」
モノクロで映し出されたのは、そばの刈り取り風景や、出征する兵士をに日の丸の小旗を振って万歳三唱で見送る人々。地域住民向けに開催したイベントでしたが、ほどなくしてNHKから「貴重な映像資料としてこちらで収録したい」との申し出がありました。さらに2年後、今度は文化庁から声がかかり、資料としてアーカイブすることになったそうです。
「好きでやってきただけのことだったけどね。やっぱり価値があるんだなと、嬉しかったよ。過去をたずねるということは、将来を見つめるために役に立つ。記録っていうのは、人間の足跡。ないよりあった方がいいんでないかい」
御年88歳(取材時)。これからも撮影はやめられません。

EPISODE 05

次世代に渡すバトン

金沢家のルーツは仙台とのことですが、市野沢に落ち着いたのはずいぶん前のこと。秀さんで5代目、現在、電気店を継いでいる息子さんで6代目になります。
秀さんに大きな影響を与えたのは祖父。前述の通り、祖父は農協の重役や教育委員など、重職を歴任してきた地域の顔役でした。難しい仏教の本などもよく講釈してくれた祖父が、「ちゃんとした学歴を持っていない」ことを、ある時金沢さんは知ります。学校の閉校記念誌に祖父の名前がなかったからです。
しかし考えてみれば、現在につながる公的な教育制度ができたのが明治の初め。祖父は学校ができる前の教育期間だった寺子屋のようなところで学んでいたから、学歴はなくとも教養はあったのです。
このことは、金沢さんの心になぜだか強く残りました。

金沢さん自身、少年の頃は学校の成績が決してよいとは言えず、教育に興味など持っていませんでした。軍国少年として、敵国を憎み国に命を捧げるよう教育され、敗戦を迎えた時には「あの時、もっと広く世界を知ることさえできていれば…」と、焼けつくような後悔を味わいました。
自身の経験を噛みしめながら祖父のことを思った時、こう考えるようになりました。

子どもたちに世界を教えることができる教育が、この世で一番大切なものなのだ。祖父が教育委員時代、「市野沢になんとしても高校が必要だ」と名久井農業高校中沢分校を開校させたのも、きっと同じ思いを抱えていたからではないか、と。

金沢さんは昨年、私財を投じ、中沢中学校そばに密かにモニュメントを建てました。
そこには明治維新期、視察と友好親善のためアメリカやヨーロッパに渡った使節団の写真とともにこう書かれています。
「歴史とは、現在と過去の対話である」
若者へのメッセージが詰まったこのモニュメントは、今は時期尚早と考え、シートで覆ったままにしてあるそうです。
「小さいことはすぐ伝わるけど、大きいことはすぐには伝わらないものだ。あと100年もしたら、なんとか分かってもらえるごった(だろう)、それまではしまっておくさ」

写真や映像記録を残すのも、今、ここで起こった出来事を後世に伝え、役立ててもらうため。金沢さんは人生を通じて、次世代へバトンを渡す仕事をしているのです。

EPISODE 06

市野沢の幸せな日々

南郷商工会の佐々木久雄さんは、市野沢のメインストリートに店を構える商店「ささき」の3代目。戦前に佐々木さんの祖父が始めた商売は戦中にいったん休止し、再開したのは昭和37年頃です。現在、南郷小学校が建つ場所に市野沢小学校があり、ささき商店はその向かいで、文房具、食料品、パン、駄菓子など子ども向け用品を商いました。
昭和29年生まれの佐々木さんは当時ちょうど小学生。もちろん市野沢小学校に通っていました。1学年80人ほどだったとか。2018年度現在、南郷小学校は全校で145名ですから、往時のにぎやかさはなかなか想像しがたいほどです。

市野沢の商店の子である佐々木さんは、南郷の〝シティボーイ〟といったところでしょうか。学校では上履きの代わりに草履を履いている同級生もいる中、佐々木さんは頭に学生帽、学生服を着こんで短靴(ゴム靴)でキメていました。農家と違って家業の手伝いもあまりありませんでしたから、本屋さんに通っては『マガジン』に『サンデー』、少年漫画に夢中になることだってできました。
そして佐々木さんの家には、友だちが引きも切らずに遊びにきました。ささき商店には子どもたちの大好きな駄菓子がたくさんあったし、貸本漫画だってあったからです。

江戸時代にルーツを持つ貸本屋は戦後、全国で急増。小説や漫画単行本、月刊誌を安く貸し出し、1960年代、昭和でいえば30年代の終わり頃までは庶民の娯楽の場として親しまれていました。現在でいうDVD・コミックのレンタル店や、インターネット上の電子書籍レンタルサービスの原型のようなものでしょうか。
商売の方法は、はじめ市販されたけれども返本された書籍を卸売業者が買い取り、それを貸本屋が仕入れて顧客に貸す…という流れができていたよう。
しかし佐々木さんの記憶にあるところでは、八戸市内に貸本の交換所があり、そこで定期的に新しい本と古くなった本とを交換して仕入れを行っていたとのこと。
ささき商店が貸本業をしていたのは戦後貸本文化の末期でしたから、地方の業者が参入しやすいシステムができていたのかもしれません。

とまあ、大人の事情はさておき、佐々木さんをはじめ市野沢の少年たちが『鉄人28号』、『鉄腕アトム』、『8マン』、『赤銅鈴之助』といった漫画のヒーローたちに心酔し、チャンバラやヒーローごっごを楽しんでいたのは確かです。
やがて地区内の壬生商店にテレビがやってくると、アニメやプロレス中継の日は決まって黒山の人だかりができました。力道山やジャイアント馬場、覆面のザ・デストロイヤーに噛みつきブラッシー。リングで繰り広げられる闘いに心を躍らせ、プロレス技の真似をしては母親に叱られる少年が続出しました。

高度経済成長を背景に続いた、市野沢の幸せな日々。しかしささき商店は昭和43年(1968年)、貸本事業を断念することになります。業界の潮目が変わったのと時を同じくして、歴史に残る大災害が発生したのです。

※参考:貸本漫画とは何ぞや? http://kan-chan.stbbs.net/manga/kashihon/about.html

EPISODE 07

折れた柱と崩れた校庭の記憶

昭和43年5月16日午前9時50分。青森県東部と北海道南西部を中心に、震度5以上の地震が発生。地震の規模を示すマグニチュードは7.9。青森県のアーカイブデータによれば、十勝沖地震の概要は上記のようなものでした。

その日、中沢中学3年だった佐々木さんは、いつものように学校にいました。2時間目の始業チャイムを聞きながら、教室で先生の到着を待っていた時。突然、激しい揺れに襲われました。
立っていられないほどの揺れ。廊下を見ると、鉄製の重い防火扉がバタバタと音を立てて開閉を繰り返し、校庭の様子が見えています。揺れが収まるやいなや、倒れた下駄箱を踏み越えて我先にと、生徒も教師も校庭に出ました。
教室は天井が抜け落ち、丘陵地だったグラウンドは一部が崩落。帰宅の指示が出た生徒たちは、下駄箱の下から必死に外履きを探し出し、それぞれ自宅を目指しました。

この時間なら、家族は仕事に出ているはず—。佐々木少年が向かったのは、市野沢小学校の向かいにあった佐々木商店でした。
そこで彼が目にしたものは、見事にすべて割れた正面のガラス戸。なんとか引き開けて入ると、店内は棚がみんな倒れていて、ノートや駄菓子が散乱しています。醤油や酢、ソースのガラス瓶が砕け散って強烈なにおいを放ち、床は洪水状態。(これらの液体は洗い流すこともできず、数日後、削岩機を借りて地面に穴を開け、地中に流したとか)
家族はみんな無事だったものの、市野沢中心部にある自宅は柱が折れて壊滅状態。その晩は、店の外で身を寄せ合って過ごすこととなりました。
「昔はな、もっと強い地震があったもんだ」
取り乱す家族をよそに、明治生まれの祖父だけが落ち着き払い、のんびりと杖でガラスを寄せながら呟きました。実際に明治29年(1896年)6月には、マグニチュード8.2- 8.5の巨大地震・明治三陸地震が起こっています。

「まさか…。こんな地震、何度もないだろう」
そう思っていたのに現実は、平成6年の三陸はるか沖地震、平成20年の岩手県沿岸北部地震、そして平成23年の東日本大震災と、南郷を含む八戸地域は幾度も激しい地震に襲われています。
けれどいずれも十勝沖地震ほどの人的被害(犠牲者50名)が出なかったのは、佐々木さんのように地震の恐ろしさを鮮明に記憶し、語ってきた人たちがいたことと無関係ではないでしょう。

市野沢の新旧生き字引

最初にお話を聞いたのは、金沢秀さん。上り街道沿いに屋上付きのビルを構える金沢電機店創業者にして、戦後の市野沢商店街を支えてきた功労者です。商店街のことなら何でも知ってる〝生き字引〟。そして、趣味のカメラを駆使して、戦後の南郷一帯をつぶさに記録してきた市井のジャーナリストでもあります。秘密基地のような店舗2階は、さながら資料館。写真や動画、ポスターに地図、家電、クラシックカーまで、昭和のお宝でいっぱいです。そしてもうお1人。戦後生まれの佐々木久雄さんは、商店の3代目です。昭和から平成にかけ、変わりゆく商店街を南郷商工会の立場から見つめてきました。

  • 金沢秀(まさる)さん(88)

    金沢秀(まさる)さん(88)

    昭和5年生まれ。市野沢のメインストリート沿いで「金沢電気商会」を開業したのは昭和24年、19歳の頃。店舗経営のかたわら中沢商工会(現在の南郷商工会)設立に関わるなど、戦後の商店街の発展に尽力。趣味は写真、動画撮影と編集で、南郷地域、八戸市、青森県などに関わるテレビ番組を録画するのが日課。

  • 佐々木久雄さん(64)

    佐々木久雄さん(64)

    地域の経営者を支える南郷商工会事務局長(平成30年度現在)。昭和29年生まれ。八戸商業高校卒業後、商工会に戦前に祖父が始めた「佐々木商店」の3代目にあたる。昭和47年の高校卒業時、父に進学を打診されるも辞退。同年に店が新築移転したことから、「親父は浮いたオレの学費分を店に使ったんだろうな」と推測している今日この頃。

※2016年、2017年の取材時の情報です。

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