南郷アートプロジェクト2019|見つけに行こう、まだ知らない南郷を。

なんごうの物語

門前のものがたり

もんぜん

島守地区12の区(自治会)のうち、上門前・下門前・高山の3集落から成る門前には6番の番号が割り当てられ、通称「第6区」と呼ばれています。区内には日本三大虚空蔵の1つといわれる龍興山神社や、京都を逃れた平清盛の息子・重盛が安元3年(1177年)に建立したと伝わる高松寺(こうしょうじ)があり、門前という地名の由来になっています。「島守四十八社」と呼ばれるほど社や祠の多い島守ですが、その代表的な神社仏閣がここに揃っているのです。毎年6月は恒例の「虫追い祭り」。張り子の龍の頭を担いだ老若男女がお囃子とともに田んぼの畦道を練り歩き、五穀豊穣と害虫退散を祈願します。
※参考:八戸市史、文化庁「平成25年度 変容の危機にある無形民俗文化財の記録作成の推進事業『青森県南部地方の虫送り』」

EPISODE 01

復活!6区な虫追いまつり

門前といえば島守第6区、6区といえば虫追いまつり!というのは、島守に住む人々なら常識です。

開催日は毎年5月初旬の田植えが終わり、一段落した6月の第3日曜日。この日は6区の祭り「ふれあいデー」で、虫追いまつりはその一環として行われます。
虫追いまつり保存会メンバーや地区の消防団、太鼓・笛・手平鉦を演奏する囃子方に、のぼり旗を手にした子どもたちで行列をつくり、地区内の道路や田んぼ畦道を練り歩くのが恒例。
中でも目を引くのが、一行が担ぐ〝龍神〟です。
朝もやの館でも見ることができる龍神は、保存会会長や有志が数週間かけて作ったお手製。厚紙やプラスチックなど、身近にある素材を使った力作です。これを各地の龍神祭りで見られる蛇踊りのように上下左右に動かし、くねらせながら行列は進みます。

虫追いと龍。古くから続く取り合わせかと思いきや、6区の祭りのスタイルとして定着したのは、実は意外と最近のことです。

そもそも、稲作に害をおよぼす虫を追い払い、豊作を願う「虫送り」の行事は全国にありました。かつては島守のどこの集落でも行われてきましたが、戦後、軒並み廃止に。
ここ門前でも古くから行われていたものが、終戦直後の混乱で途絶えていました。復活したのは平成10年(1998年)。当時の6区自治体有志が中心となり、夏祭りに合わせて再び開催したのです。
龍が登場するようになったのはこの時。以前は「五穀豊穣」「悪虫退散」と書かれたのぼり旗だけを持って練り歩いていたのですが、せっかく復活したのにそれでは物足りない…と住民が意見を出し合い、出した結論が龍神を作ることでした。
地区の南端に鎮座し、雨ごいの神として信仰されてきた島守四十八社の1つ「雨龍権現」を、虫追いまつりの主役にと考えたのです。今では行列の出発前に雨龍権現に参拝し、お囃子とお神酒を奉納するのが習わしになっています。

※参考:文化庁「平成25年度 変容の危機にある無形民俗文化財の記録作成の推進事業『青森県南部地方の虫送り』」

EPISODE 02

今夜はフィーバー

「島守盆地は平家の落人の隠れ里」とも言われますが、6区に限って言えば、そんなシットリとしたイメージはどこへやら。結束が強くて祭り好きの住民が多かったのでしょうか?イベントにかける熱量の高さで有名だったとか。他の地区から嫁入りした滝沢カチさんは娘時代から、途切れる以前の虫追いまつりのにぎわいを伝え聞いていたそうです。

またその昔、島守盆地全体でお盆の祭りをしていた頃には、地区ごとに八戸三社大祭に似たスタイルの山車を作っていたそうで、生まれも育ちも門前の川畑和子さんによればそれも「六区がいちばん豪勢だった!」と鼻高々。
山車には〝生き人形〟として人形の代わりにきらびやかな衣装をまとった人間が乗り、フィナーレには花火も。往時のにぎわいがしのばれます。

お盆の祭りには欠かせない盆踊りも盛況でした。8月12~16日は、高松寺境内がダンスフロアに早変わり。ふだんの農作業から解放された若者たちが、精一杯おしゃれをして出かけていきます。平清盛の子・重盛が京から逃げ延び、高松寺の前身である小松寺を建立した際、記念樹として植えたと伝えられるカヤの大樹。その下に集っては、夜が明けるまで踊りまくりです。

今のように櫓を組むこともなく、華やかな提灯の明かりもなし。照明は街灯やお寺の明かりで間に合わせていました。もちろんスピーカーもマイクもありませんから、BGMは生歌でアカペラ。各集落の歌自慢が腕前を披露していたのは、今でいえばシンガーとDJを兼ねている感じでしょうか。
現代とは比べるべくもないほど、ないない尽くし。けれどこれが盛り上がるんだそうで。「お寺が終わってもまた別の方で、朝まで踊りまくった(笑)!」と和子さん。集落の集まりなど何かと機会をとらえては踊るのが、門前のヤングのナウい過ごし方でした。

EPISODE 03

あの娘(こ)、嫁っこに行くってよ

戦前から始まった捕鯨船への出稼ぎは、昭和30年代の南郷の若者にとって憧れの職業であった…というのは、「クジラの村のものがたり」でも語られている通り。「3回乗れば家が建つ」といわれるほどの高給取りでしたし、海に出て「広い世界を見てみたい」という好奇心は、いつの時代の若者も持っているものでしょう。ひとたび乗組員の募集がかかれば、3~4人の定員に対し、18~26歳の男たち300人以上から応募がありました。

お嫁さんを見に行く。宴会を見に行く。これは立派な娯楽だったのですから。親戚や招待客でないけれども宴会に出入りすることは〝嫁見〟と言って、「嫁見に行こう」「嫁見にきた」という風に使います。

結婚式を催す家にしても心得たもので、宴会中は座敷の戸を開け放ち、ご近所さんの出入りはフリー。嫁見に行けば甘酒や煮しめ、引き昆布の煮ものなどごちそうにもありつけました。お嫁さんと直接言葉を交わすでもなく、嫁見の人々は純粋にギャラリーとして、お嫁さんや家族が宴会をするのを見るのです。人々は新妻の容姿や着物の善し悪しなどで勝手に盛り上がり、「箪笥はどんなのをなんぼ持ってきたか」なんてところまで言及。親戚に至っては必ず箪笥の中身チェックを入れてきます。だから嫁入りする女性たちは、ツテを頼って借りてでも、箪笥に着物を詰め込んで持って行く必要がありました。

それにしても、この嫁見の習慣。現代の結婚式と比べると実に不思議です。好き勝手に見に来ても甘酒や食べ物はふるまわれるし、かといって正式な招待客ではないので、宴会する人々とあいさつや会話はしないのです。互いに存在を認めているような、いないような、独特の距離感。もしかすると、嫁見は舞台芸能を観る感覚に近いのでしょうか。となると、お嫁さんはさしづめ、会いに行けるアイドル?

EPISODE 04

7日目のフルコース

結婚の宴は1週間近く続くのが一般的。そして式は一切合切が手作りで、料理に着付けなど、すべてを家族・親戚・集落内の仲間で作りあげるのは、農村に共通の習慣でした。

カチさんも料理上手を見込まれ、若い頃から宴会料理を手がけてきた1人。宴会は数日間続くので、限られた食材の中から最初に出す料理、中盤に出す料理、最後に出す料理をあらかじめ考えておかなくてはいけません。たとえば、タラのお頭つきは片っ端からさばいて塩焼きにするほか、アラは縄を通して吊るし、3日後にアラ汁にする手はずを整える。というように。

親戚一同に嫁を披露する「嫁取り」、新郎の友人が参加する「若い者ぶるまい」…と続いて、料理人は疲れています。
だからなのでしょうか?最終日あたりになると、招待客も一緒に山に入り、薪を拾う手伝いをするならわしがあったとか。大人も子どもも協力して、フィナーレに向けて着々と準備します。
そんな最後の宴会は「たいぎぶるまい」と呼ばれ、招待客も料理人も、結婚についての一連のプロジェクトに関わった人たちが全員、料理を囲んで盃を交わす会でした。家の人は「おかげさまで無事終わりました」とみんなに盃を回し、感謝の気持ちを伝えます。最後は湯漬けが出るとおひらき。宴会では貴重な白米ごはんをたくさん炊きますが、保温も冷凍もできないので、余ったごはんを湯漬けで食べるのです。ごはんに湯をかけただけで、味付けはなし。それでも「おいしかった」と、カチさんは目を細めます。
「あったかいってことそのものが、ごちそうなのね。みんなで食べれば何でもおいしかった」

楽しむための場を作り、楽しみ、最後は片づける。最初から最後まで、みんなでやる。誰もただ座っているだけの〝お客様〟にはならず、役目を持って参加する。現代の、プロに任せれば何でもやってくれる式もいいけれど、こんな手作りの結婚式って楽しそうです!

EPISODE 05

海と山との間では

昭和30年代、八戸地域でのお話。漁師の守り神は蕪島の弁財天、仲買や卸など魚を売ったり料理したりして生計を立てる人の神様は龍興山と言われていたとか。

だから海から離れた神社であるにもかかわらず(八戸港から20㎞以上の距離)、龍興山神社にはまな板が奉納されているのを見ることができたのです。
参拝客は、八戸の海に面した地区からは漁師。また南郷では南洋・南氷洋のクジラ漁、マグロ・カツオのはえ縄漁の船乗りも多かったので、その航海の安全を祈願する家族も訪れました。
山間の農村に貴重な現金収入をもたらした漁業は、たばこ生産と並ぶ産業でした。南郷には当時の水産加工大手・大洋漁業の家族会があり、船乗りの妻たちは集落を越えて団結。しっかり留守を守るために船の情報を勉強したり、集まって情報交換をしたり。また家族会は全国組織なので、時には活動の一環として東京まで出向くこともあったとか。カチさんの夫・清治さんは大洋漁業に勤務し、「自分が家を空けて仕事をして、その間集落の人たちにお世話になったから」と退職後は地区のために尽力。10年ほど前に惜しまれながら亡くなりましたが、カチさんはその遺志を胸に、高齢者向けのレクリエーションサークルで会長を務めるなど地区に密着した活動を続けてきました。

EPISODE 06

どじょう・ばっと

料理名人は母譲り。カチさんの実母は、合併前の南郷村時代に郷土料理で表彰されるほどで、娘のカチさんも、料理上手揃いの南郷のお母さんたちに〝先生〟と呼ばれる存在です。
カチさんは平成28年(2016年)、島守田園空間博物館運営協議会の依頼で「島守舘御膳(しまもりたてごぜん)」を考案しました。クジラ入りの干し菜汁にヒエ飯、イワシの塩焼き。その昔、当地で食されたメニューを集めた御膳は、今の人には新しく、昔を知る人には懐かしいと評判を呼びました。

干し菜汁といえば、こんな話があります。
藩政時代、海から吹きつける冷たい風「やませ」のため稲作がさかんでない南部藩は貧しく、藩主さえも自由にコメを食べることはできなかったとか。
南部の殿様 ヒエ飯アワ飯 喉さひっからまる干し菜汁。
なんて歌を、昭和の終盤生まれの筆者も聞いたことがあるくらい。干して乾燥させた大根の葉で作る干し菜汁は、八戸地域の人々にとってDNAに刻まれたソウルフードといえます。そこに捕鯨がさかんだった昭和30年代、出稼ぎに出た船乗りがお土産に持ち帰るクジラ肉が加わり、バージョンアップして定着したのが、クジラ入りの干し菜汁というわけです。

その干し菜汁に「どじょうばっと」を入れたものがどうにも苦手だったと語るのは和子さん。「はっと」は南部弁で麺類のことで、どじょうばっとは、その色かたちがドジョウに似ているということで名前がついたようです。つまり、手打ちそばを太く切った郷土料理。岩手県北の郷土料理として紹介されることの多い「柳ばっと」も考え方は同じで、こちらはそばを柳の葉に似たかたちに仕上げます。

干し菜と、せいぜい豆腐ぐらいが入った味噌汁に、ワイルドな太切りそばを入れて食べる…と想像すると、確かにあまり現代人の口には合わない気がします。

現在は調味料の選択肢が広がり、しょうゆ仕立ての汁でも食べたり、具材もたっぷり肉や野菜を入れたり。はっとが美味しく食べられる、いい時代になったと喜びをかみしめる和子さんでした。

EPISODE 07

本物の煮しめの味

南部地方ではお盆に正月、お彼岸など、お祝いごとや季節の行事に欠かせない煮しめ。大鍋でたっぷりと作るから日持ちするように、じっくり煮込んでだし汁と味を具材に染みこませます。肉類や魚介を入れる地方も全国的にはあるようですが、野菜と山菜だけで作るのがこの辺りでは一般的でした。

そんな定番のおふくろの味を、意外にも「私、作れないのよ」と和子さんは笑います。もっとも本当にまったく作れないわけではなくて、作っても、夫に「お前の作るのは本物の煮しめでない。おでんだべ」と言われてしまうのだそう。

“本物の煮しめ”とは門前集落の伝統的な煮しめのことで、わらび、きのこ、ふき、焼き豆腐、にんじんごぼう(にんじん、ごぼう、ではなく「にんじんごぼう」と一つの単語のように発音する)を使ったもの。
「私は必ずこんにゃくを入れるから、正式な煮しめではないと言われるのかもしれないわね」と和子さんは分析しています。こんにゃく一つで格式に関わるとは、煮しめもなかなか奥が深いですね。

何をもって〝本物〟とするかは難しいところですが、昭和30年代頃の煮しめを理想とするならば、それは地元で手に入る範囲の食材を使い、具材そのものを苦労して集めたり、手作りしていた手間ひまが味わいとなって表れていた…のかもしれません。山菜は山から、根菜は畑から、焼き豆腐は各家庭で手作り。アクを抜いて丁寧に切り揃え、時間をかけて煮込む。そうしてできあがったひと椀は、肉も魚も入っていなくても、お腹も心も満たしてくれるごちそうだったのに違いありません。

EPISODE 08

おにぎりくじ大当たり

「結っこ」、それは農作業の共同体。農家2・3軒が集まる小さなグループで、ここ門前では結っこが訛って「ゆうこう」と呼んでいたとか。日常的な農作業などはたいてい、ゆうこう単位で進めたものでした。しかし田植えとなると一大イベント。各ゆうこうが集まり、「共同田植え」をすることになります。

門前地区を構成する上門前、下門前、高山の集落のうち、上門前には昭和30年代当時、30戸ほどの住民がおり、そのうち農家をやっている20数軒で共同田植えを行いました。さらに周辺の集落の親戚も手伝いで出入りするので、食事作りを担当する女性たちは、朝から晩まで数十人前の食事とおやつ作りに大わらわ。そんなとき、ある奥さまがちょっとした仕掛けを考えました。
何十個と作るおにぎりに、いろんな具を入れてくじ引きのようにしたのです。鮭に梅漬け、漬物などはもちろん、〝当たりくじ〟はジュースの瓶のフタに、紙に書いたメッセージ…ってこれ、もはや食べ物ですらない。当たりというより罰ゲームに近いかも(笑)。
けれど、きつい労働を楽しいことに変えようとする姿勢はとてもクリエイティブです。こんな仕掛けがあれば、新しく入ったメンバーや口下手な人も、スムーズに輪に溶け込むことができていたでしょう。
もともと門前地区出身の和子さんは10代の独身時代から、カチさんは23歳で嫁いでから共同田植えに携わりました。2人とも口を揃えて、共同田植えは「楽しかった!」と瞳を輝かせます。

田植えが終われば、最後は「天祈り(てんのーり)」と呼ばれる慰労会。地区のリーダーの家に集まり庭にテントを立て、100人分ものごちそうを用意して盛り上がりました。

EPISODE 09

すまして納豆吊るす味噌玉

和子さんの実家では、祖母が豆を挽いて豆腐を手作りしていたそう。お盆の13日は、毎年恒例の生麩作り。白せんべいも家で焼きました。おやつの串餅は麦の粉で作りますが、残りごはんがあったら一緒に入れると、もっちりおいしい餅になります。

一方のカチさんは、納豆も手作りしたことがあるとか。大豆を煮たら、天日干しした藁をすなごいて(しごいて)汚れや草を落とし、藁苞(わらづと)作りをします。藁苞とは大豆を包んで発酵させる入れもの。藁の中にもともと存在する納豆菌が、温度を40度くらいに保つことで繁殖し、納豆ができていくのです。
藁苞ができたら茹でた豆を入れ、こたつの中に入れたりなどして保温すると、発酵が進みます。外から納豆菌を入れるわけでもないのに、よく粘るいい納豆ができたといいますから、自然の力は偉大です。

同じく煮た大豆を砕いて団子状に丸め、寒さが底を打つ2月頃に藁を編んで茅葺屋根の軒下に吊るし、発酵・乾燥させたものが「味噌玉」です。待つこと1カ月あまり。水分が抜けてカチカチになったところを軒下から外し、臼と杵でたたき割る。これを塩水と混ぜあわせて熟成させると、今度は味噌のできあがりです。こうして書くと簡単なようですが、味噌は3年、5年と熟成期間が必要なので、毎年仕込んでおかなくてはなりません。
また、味噌玉を作れるのは冬の厳しい寒さがあってこそ。ここにしかない貴重な食文化なので「南部味噌玉」と呼ばれることもあります。

手作りの味噌を煮溶かした煮汁を麻袋に入れて吊るし、滴り落ちてきた汁が「すまし」。すましは、昭和30年代頃まで貴重だったしょうゆの代わりの調味料で、そばのつけだれなどにも使われていました。
“幻の調味料”ともいわれるすましですが、カチさんと和子さんは「おいしいもんではないよね」「今の若い人は食べれないと思う…」と苦笑いを見合わせます。塩気が強く苦味走った複雑な味わいで、水で薄めてめんつゆなどと混ぜれば食べやすいのでは?とのことでした。

しかし、「まずい!」と言われると逆に興味が湧いてくる方も、中にはいるのでは? ちなみに筆者はそのタイプです。そこで調べてみたところ、「物語をあつめる」チームで以前取材させていただいた山の楽校で「すましそば」をいただくことができるとの情報をキャッチ。南郷においでの際は幻の味を体験してみるのもいいかもしれませんね。

※参考:なんごうツーリズムhttp://navi.hachinohe-cb.jp/nangotourism/plan/recommend/detail/4

EPISODE 10

早すぎたデビュー

ところで現在の門前は、健康診断受診率が八戸市内でトップ3に入る、健康意識の高い地区なのだとか。
しかしその昔、昭和30年代頃まではほとんどの食品が手作り。食材を大事に食べるために保存食にする。保存には塩分が必要ということで、とにかくしょっぱいものが多かったそうです。
となると、それを肴にお酒も飲みたくなるもの。
南郷の他地区と同じように、ここ門前でも各家庭でどぶろくを手作りしていました。米と麹を入れ、温めることで発酵が進むどぶろく。ときどきかき混ぜながら置いておくと、夏場で2日半、秋冬は20度程度の暖かい所で3日間くらいで飲めるように。調合や暖め方などの条件により、各家庭で全然違った味ができるのも楽しみです。

そんなどぶろくにつきものなのは、税務署による取り締まり、通称「どべ調べ」です。
どべ調べの際、「ねだ(床下)に隠すのは素人。そんなのすぐバレる」と和子さんは鼻で笑います。
「とにかく家の敷地の外に出せば、見つかってもとぼけられる」というのが持論です。和子さんの家の近くには戦時中に掘られたと思われる洞窟があり、湧き水が出て夏も涼しいそこは、どぶろくの隠し場所として重宝していたとか。
「さぞかしお酒が好きなんでしょう」と思いきや、和子さん、実はお酒は一滴も飲めません。それというのも、デビューが早すぎたから。和子さんの苦い思い出はこんな話です。

どぶろくを袋に入れて絞ると、液体と分離された酒粕ができます。甘くておいしいというので、乾燥させておやつ代わりにする人も多かった酒粕。少女時代の和子さんも、ご近所の家でおいしくいただきました。すると帰宅後、体調に異変が。ひどいめまいと吐き気に襲われ、それ以来、甘酒さえもダメになってしまったとか。

郷土料理名人コンビ

毎年10月下旬は「新そばまつり」。産直やそば処を備えた総合情報館「朝もやの館」には市内外から多くの人が詰めかけ、秋の風物詩に舌鼓を打ちます。そば打ちを担当するのは、朝もやの館から新井田川へ少し降りたところにある門前地区のお母さんたち。そば打ちから切りまで手際よく仕上げていくさまが、キャリアの長さを物語ります。今回お話をうかがったのは、そんな門前が誇る料理名人の仲良しコンビ。移築された茅葺屋根の古民家で農業体験ができる「舘(たて)のやかた」で昔ながらの農村の雰囲気を感じながら、クセがすごい(⁉)南郷の食文化トークを味わいました。

  • 滝沢カチさん(82)

    滝沢カチさん(82)

    昭和11年生まれ。島守の馬場集落から門前に嫁ぐ。長年にわたり民生委員を務めてきたほか、地区の女性たちに伝統食、郷土料理を教えたり、子ども会イベントや児童館で給食作りを担当するなど、食を通じて地域に貢献してきた。そば打ち名人として地区内外にその名を轟かす。

  • 川畑和子さん(74)

    川畑和子さん(74)

    昭和20年生まれ。門前の中で嫁入りした生粋の門前っ子。カチさんとは家が後ろ前ということもあり仲良し。レクリエーションサークル「ほのぼのの会」ではカチさんが会長、和子さんが事務を務める。同会は保健師による講話や軽い運動などで健やかな生活を目指すほか、年に数回は手打ちうどんをはじめ、手作り料理を囲む活動を行う。

※2016年、2017年の取材時の情報です。

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