南郷アートプロジェクト2019|見つけに行こう、まだ知らない南郷を。

なんごうの物語

不習のものがたり

ならわず

「不習」を漢文風に下から上へ読んで「ならわず」。「ナラァズ」と上手に発音できたらネイティブ風。昔から楢の木が自生しており、“楢の木の地”という意味の「楢地」(ならじ)が地名の由来とされます。不習と田山、2つの集落が1つの地区を形成し、小高い山に囲まれた丘陵地は一面の葉タバコ畑。正面には標高375mの不習岳がそびえます。地域の人々にとっては山菜やきのこが採れる恵みの山。1977年に八戸市が「市民の森不習岳」として案内施設やキャンプ場を整備し、ハイキングやキャンプを楽しみに多くの人が訪れます。
※参考:岩手日報「県南の地名を訪ねて」(1976.8.26)

EPISODE 01

習わない小学校?

不習に小学校ができたのは、昭和32年のこと。それまで子どもたちは島守小学校まで通い、雪深い冬の間だけ地区内の分教場に通いました。

戦後まで山の木を活用した炭焼きがさかんだった不習。地区の約9割の住民が炭焼きに携わっており、戦時中は、炭を納めるための倉庫を分教場の校舎として使っていました。

島守小学校までは、子どもの足で走って30分以上かかります。やはり不便でしたから、小学校は地区住民の夢。開校に向けて動き出した矢先、問題が持ち上がりました。

「学校は勉強する場所なのに、〝習わない〟(不習)なんて名前はいかがなものか?」 初代校長から出た意見を聞いて、人々も考え込んでしまいました。

地区の名前をそのまま取れば「不習小学校」。しかしそれでは子どもたちのやる気に関わる…かもしれない。学校関係者と地域住民を交えた話し合いの末、校名は、緑あふれる地区のイメージにちなみ、近隣のどこの地名にもない「緑小学校」に落ち着きました。ちなみにジャージは、もちろん緑。

今回お話を聞かせてくれた田向歳男さんの4人の子どもたちは、全員緑小の卒業生。歳男さんは、長年PTA会長を務めていました。

同小は昭和62年、30年間の歴史に幕を下ろしましたが、その後校舎は緑公民館として活用され、地域の集会やイベントに今でも使われています。周辺の除草など、手入れも地区全体で行い、終わった後は打ち上げもここで。今回、歳男さんにお話をうかがった場所も、もちろん緑公民館です。

EPISODE 02

進学率3% 長男はつらいよ

歳男さん自身の学生時代について尋ねると、高校は「入るわけねぇべ!」と即答。口調には少しだけ、悔しさが混じります。

時は戦争の影響が色濃く残る昭和20年代後半。島守中学校の同級生100人のうち、高校に進学したのはわずか3人だったとか。

経済的な事情もさることながら、当時、長男は高校に行かせないという家庭が大半でした。

「どうせ家を継ぐのだから、学校で勉強している暇があったら早く家業を手伝って、1日も早く一人前になってほしい」ということでしょうか。

特に歳男さんの場合、事情が少々込み入ってもいました。

母は歳男さんを産んですぐ急性肺炎で亡くなり、父は4歳の頃に戦死。父のきょうだいは女ばかりで、祖父母は歳男さんを〝息子に代わる跡取り〟として育てました。

酪農と、炭焼き・林業の手間取り(アルバイト)をして現金収入を得るかたわら、自家用に田んぼや畑を耕し生計を立てていた田向家。歳男さんは「専門の勉強をして手に職をつけ、生活を安定させたい」と考えていましたが、昔気質の祖父母は「ゴデ(長男)が学校なんて! 家の仕事がなんぼでもあるのに!」と進学に猛反対。断念せざるを得ませんでした。

しかし、簡単には諦められない。中学の友人と一緒に、こっそり専門学校に行こうと企てたことがありました。

得意科目は農業と数学。ならば農業普及員なら食えるだろうと、お隣の軽米町(岩手県)にあった農業普及員養成校に目星をつけました。授業料は無料。自分で申込書を書き、入学はそう遠くない日に思われましたが、落とし穴は思わぬところにあったのです。

書類には印鑑が必要でした。そこで家の印鑑を持ち出そうとしたのを祖母に見つかり、こっぴどく叱られた上に、計画はご破算に…。

「ハンコ屋さんで買えば200~300円でよいものを、生真面目に家のハンコを借りなければと思ってしまったのがいけなかった(笑)」と歳男さん、今でも頭をかきます。

しかしこのことで「手に職をつけたい」という思いは通じ、中学卒業後は大工修行を許されました。

EPISODE 03

倍率100倍のオーディション

戦前から始まった捕鯨船への出稼ぎは、昭和30年代の南郷の若者にとって憧れの職業であった…というのは、「クジラの村のものがたり」でも語られている通り。「3回乗れば家が建つ」といわれるほどの高給取りでしたし、海に出て「広い世界を見てみたい」という好奇心は、いつの時代の若者も持っているものでしょう。ひとたび乗組員の募集がかかれば、3~4人の定員に対し、18~26歳の男たち300人以上から応募がありました。

中学卒業後、大工修行に励んでいた歳男さんもその1人。とはいえ当時、不習地区から捕鯨船に乗り組んだ人は誰もいませんでした。そこで南郷の他の地区の先輩に話を聞いて回ることに。合格のコツや船乗りの生活について。聞きたいことは山ほどあります。

そしで分かったのは、一次審査は健康診断、二次は面接で、ここで応募者は約1/3に絞られること。そして採用の決め手が「元気」であること!漁船の仕事は深夜勤も含む3交替制のため、暗い中でも大きな声で仲間に存在を知らせることができなくては危険。また何カ月も男ばかりの共同生活を送るため、明るくコミュニケーション能力のある人材が向いているとの判断だったのでしょう。先輩からのアドバイスは「面接官が困るぐらいバリバリと(元気に)喋ろ(喋れ)」

アドバイスを実践し、3回目の挑戦で合格した歳男さん。見事、倍率100倍(!)の難関を突破し、不習地区出身の船乗り第1号として南氷洋に漕ぎ出すこととなりました。

また、先輩がしてくれたように自らも合格ノウハウを伝え、不習からあと3人後輩船員を輩出。しかし残念なことに、歳男さん以外はみんな50代で亡くなってしまったそうです。

「みんな飲むからなぁ。俺も50までは、晩酌は2日で1升開けるぐらいだった。だからこの辺には男はいないんだ。みんな50代で当たりバッタリ(笑)!」と歳男さん。

〝当たりバッタリ〟とは南部弁のスラングで、〝脳卒中などでバッタリ倒れてそのまま亡くなる〟の意味。壮年の男性が次々に倒れていく集落って、普通に考えたら笑ってる場合じゃないのですが…(笑)。辛いことでも笑い飛ばしてしまうユーモアが、元気で長生きの秘訣かもしれません。

EPISODE 04

ちがいのわかるおとこ

慣れた手つきで取材チームにコーヒーをふるまってくれた歳男さん。自身も毎日4杯ほど飲むのが長年の日課だそうです。

「コーヒーだけだよ、医者が、飲んで悪いって言わないのは」

50代までは酒豪で鳴らしましたが、その後はさすがに健康を考えて酒量は抑え気味。自由に摂れる嗜好品はコーヒーだけになっています。

農村のブレイクタイムの定番といえば砂糖たっぷりの缶コーヒーと、リ●ビタンDのような栄養ドリンク(八戸の兼業農家出身である筆者調べ)。80代でブラックコーヒーを愛好する人には、めったにお目にかかりません。

そこのところを尋ねてみると、やはり、歳男さんがコーヒーと出会ったのは、捕鯨船に乗り組んでいた頃だとか。それまでも、ココアは八戸市内に大工仕事で出向いた際、振る舞われることがありましたが、コーヒーは船の先輩から飲ませてもらったのが初体験。仕事は24時間を8時間ずつに分けた3交替なので、深夜勤務のときにはブラックコーヒーをがぶ飲みし、しっかり目を覚ましてから仕事に向かいました。

はじめは目覚ましのためだけに苦いのを我慢して飲んでいましたが、しだいにその香りや味わいに魅了され、荷役のため国内の港で停泊した際には、仲間とともに東京や名古屋の港でコーヒーを買って楽しむようになりました。

某コーヒーのCMでは『ダバダ~ダバダ~♪』のコーラスとともに『違いの分かる男』というキャッチコピーが一世を風靡しましたが、歳男さんもだんだんと、その領域に近づいていった…と考えるのは、少々無理やりでしょうか(笑)。

EPISODE 05

肩で風切る赤シャツが行く

赤い服着て長横町(八戸市中心街が誇る飲食街)歩けば、あっちこちから熱視線。

歌謡曲の歌詞にでもなりそうですが、これは本当にあったこと。歳男さんが捕鯨船の乗組員をしていた頃、その制服は明るい赤でした。万が一海難事故に遭遇した場合に救助しやすいよう、目立つ色にしてあるのですが、この制服、陸(おか)ではまた違った意味を持っていたようです。

つまり、赤い船員服は、羽振りが良い証。これを着ていれば、飲食街の店主たちはツケでも喜んでお酒を飲ませてくれました。給料制で安定した収入があり、ツケで飲ませたって取りっぱぐれがありませんから。金離れがいい彼らは、女性にもおおいにモテたとか。

歳男さんも、飲み屋街を肩で風を切って歩いた1人です。

22歳から船に乗り、大工仕事と並行しながら続けて、36歳で引退しました。24歳の時、同級生で船員仲間でもある親友の妹と結婚。その後はもちろん、給料を家に入れていましたが、基本給の3倍になることもあったという航海手当や、キャリアに応じて支給される歩合給、漁の成果によって振り分けられるボーナスは、自分の懐に。

「だからね、稼いでるといっても金は残らないわけよ」ガハハと豪快に笑います。

古くから港町として栄えた八戸市の中心部には、海の男たちをもてなす飲食店が発達してきました。特に、狭い路地に小体な飲食店が軒を連ねる8つの横丁は、昭和20年代に誕生。歳男さんのような〝赤シャツ〟の人々が、その発展を支えてきたことは想像に難くありません。そのにぎわいは、バブル期に「タクシーがつかまらなかった」という話も残っているほど。歳男さんは、「今の長横町はさみしくて、泥棒が出はる(出る)よった」と下を向きますが、どうしてどうして、捨てたものじゃありません。

平成14年(2002)の東北新幹線八戸駅開業にあわせて誕生した「みろく横丁」は、今や人気の観光スポットとなり、各横丁の空き店舗を使ったアートプロジェクトが毎年開催されるなど、地元民にも旅人にも愛される場所であり続けています。

EPISODE 06

100まで生きる?まつから水

山中にある不習には、沢はあっても川はない。

昔から「まつから水」と呼ばれている湧き水があります。

「寒い時でもスガがたかる(氷が張る)ことがなかったな。冬は湯気がかかって、もれもれと(水がさかんに湧き出る様子を指す南部弁のオノマトペ)湧いてた」と歳男さん。一方で、「夏でも1分手を入れてると手が真紫になる(ほど冷たい)。誰が一番我慢できるか、手ぇ入れて競争したもんだ」とも。子どもの頃は農作業の合間や学校帰りに、この湧き水で喉を潤していたとか。

地下水は一年中ほぼ一定の水温を保つため、夏は冷たく、冬は温かく感じられます。今はアスファルトで舗装された道路の脇にひっそりとありますが、その地下には鍾乳洞が広がっているという噂も…。

このまつから水、大正生まれの林タカさんもよく飲んでいたそうで、「水道の水と全然違う」と太鼓判を押します。

「あれ飲めば100年こぁ生きるわ。そういえば、あれ飲んだへんで(飲んだから)私は長生きしてるんだな」なんて笑っているタカさんは、人生100年時代を先取りした大先輩。

90代半ばになる今も毎朝、愛犬と散歩をし、きゅうりでもなすでも白菜でもタマナ(キャベツ)でも、食べたい野菜はなんでも自分で作っちゃうのですから。長男ご夫婦は70代ですが、「私ほど元気じゃないね」と胸を張ります。

タカさんの元気で長生きの秘訣がもう1つ。百薬の長…そう、お酒です!どぶろくも清酒もイケる口。若い頃から男性顔負けに働く分、お酒も同じくらい飲んでいたとか。しかしタカさんが飲んでいた島守の酒蔵の酒には、まつから水も使われていたそうですから、結局は〝きれいな水〟がポイントなのかもしれません。

そして、タカさんに限らず、鳩田地区の一山チヨさんしかり、中野地区の木村タヨさんしかり。

若い頃から一生懸命に働き抜いてきた元気な80代、90代の女性に、南郷ではよく出会いました。彼女たちが口々に言うには、元気で長生きしたければ「ラクしようと思わないことだな」。

…痛い!耳が痛い!と思った方、筆者以外にもいるでしょう?仕事は座ったままでパソコン作業、帰ればソファに寝転がってテレビ観て、スマホで買い物する。ホラホラ、そこのあなたのことですよ! 昔と同じようにはいかないけれど、早寝早起き、そして運動。みなさま、一緒にがんばりましょう。

EPISODE 07

ト●タにする?●ンダにする?

前述の通り、沢はあっても川がない。加えて、斜面はあっても平地がない。

水も土地もないとあっては米作りは難しく、畑も自家消費用程度。昭和30年代から酪農が、それ以前は炭焼きが主な現金収入源でした。

その後、中沢・島守両村で昭和15年から始まっていた葉たばこ栽培に参入。現在では〝不習といえばたばこ〟のイメージが近隣地区では定着しています。平成6年、南郷村の葉たばこ売上が史上最高の17億6,400万円を記録した時も、不習は少なからず貢献していたのです。タカさんもかつて、葉たばこ栽培一本で家族の暮らしを支えた時期があったとか。

さて、時は遡って、葉たばこバブル時代が来る少し前。

昭和30年代頃まで、農作業には牛馬が不可欠でした。どの家でも牛か馬を置き、今はトラクターでする田起こしや、コンバインでする収穫後の稲運びをさせていました。

不習の人々の朝一番の仕事は、不習岳に行き、その日1日分の家畜の食事をゲットしてくる、つまり草を刈って束ねておくこと。歳男さんの家では馬を飼っており、朝食は山で草刈りを済ませてから。小学3年生から毎日、雨の日も嵐の日も休まず続く習慣でした。一方、タカさんの家では牛を飼っていたとか。農具代わりの家畜なので、乳が採れない牡牛です。

一口に牛馬といっても、見た目も性質も違う。どちらを飼うかはどう決めた?

素朴な疑問をぶつけてみると、ただの好みの問題であったことが発覚。タカさんは実家で牛を飼っていたので嫁いでからも牛を選び、「馬は足が長くて好きでない。なんだか怖かった」と言います。歳男さんは「じさまが馬を置いてたからな~」。

この感じ、今でいえばクルマを選ぶときの感覚とちょうどリンクします。

「前乗ってたのがト●タ車で操作に慣れてるし、やっぱりト●タにしよう」みたいな?

EPISODE 08

不習いいとこ

不習集落から田山集落へ嫁入り。不習地区内を出ることなく暮らしてきたタカさん。山の中の小さな集落に住んでいて、困ったことは?と尋ねると、「ない」。

不習には川がないし、田山は標高が高いから水害の心配がなく、安心していられる。

不習岳には幼い頃から登って、しどけに棒菜、きのこ、山の恵みをたっぷりもらってきた。

塩や砂糖、必要なものは島守で買えたし、イワシだって行商が売りにきた。食べ物に困ったこともない。

と、タカさん。

「だいたい、不習を山だと思わながっけ(思わないって)、私は」

中学に進まず畑仕事ひと筋、17歳で親が決めた結婚をし、すぐに母親になり。7人の子どもを育てながら畑仕事に精を出し、家にいる時間がほとんどなかったといいます。苦労も多かったに違いないのに「その時その時でなんとか暮れたんだべ(日々を送っていた)」と微笑みます。

山を山と思えば、上るのが怖くなる。苦労を苦労と思えば、辛さが倍増しになる。山のてっぺん、先の未来、まだ見ぬことを思って不安になるより、目の前のことに全力で向かえばい。それが、タカさんの生き方です。

タカさんにとって不習は最高の住処。井の中の蛙大海を知らず。されど、空の青さを知るのです。

ちなみに歳男さんが思う不習の好きなところは、「どこに行っても〝よそ〟とは思わず、お隣さんの感覚でいられるところかな。誰の家でも勝手に開けられるぐらい」話すそばから、

「ばさま~、いだ(いる)?」と現れたのは、伊藤一樹(かずき)さん。タカさんの隣にごく自然に腰を下ろします。

伊藤さんは父とともに不習でたばこ畑を営む、地域で唯一の30代の若者です。その真っ黒に日焼けした顔を眺め、「ここの宝よ」と目を細めるタカさん。家族のように距離が近い3人を見ていると、不習の絆がこれからも続くことを願わずにはいられません。

山女と海男

不習岳の裾野の斜面に民家が点在する不習地区。必然的に炭焼きや葉タバコ畑など、森林や丘陵地の資源・地形を利用した産業で生計を立てる世帯が主になります。しかし今回お話をうかがった田向歳男さんは珍しい経歴の持ち主。捕鯨船に乗り組み、南氷洋で青年時代を過ごした後は、腕のいい大工として建築現場を飛び回りました。一方、地区の最長老・林タカさんは、そんな歳男さんを弟のようにかわいがってきた姉御肌の働き者。90年余の人生を、不習に根を下ろして過ごしてきました。山や畑で働いてきたタカさんと、海を知る歳男さん。対照的なふたりですが、よく笑うところはきょうだいのように似ています。

  • 林タカさん(94)

    林タカさん(94)

    大正13年生まれ。両親を早くに亡くした歳男さんのことを親身になって面倒を見ていた。17歳で不習地区内の不習集落から田山集落へ嫁入りし、「6~7人?」(本人談)の子どもをもうける。林家は代々、集落内にある「田山岳神社」の宮司を務めており、タカさんも毎朝、飼い犬を連れてお供えをするのが日課。

  • 田向歳男(としお)さん(83)

    田向歳男(としお)さん(83)

    昭和11年生まれ。両親を早くに亡くしたため、10歳頃まで頃巻沢の養母と不習の祖父母・叔母のもとを行ったり来たりしながら育つ。22歳から捕鯨船に乗り組み、24歳で友人の妹と結婚。36歳の時に船を降りた後は大工職人となり、4人の子どもを育てた。

※2016年、2017年の取材時の情報です。

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