南郷アートプロジェクト2019|見つけに行こう、まだ知らない南郷を。

なんごうの物語

中野のものがたり

なかの

産直にレストラン、7月下旬に開かれるサマージャズフェスティバルと、南郷のお楽しみがいっぱいに詰まった「グリーンプラザなんごう(道の駅なんごう)」があるのがここ中野。隣接する市野沢とともに、南郷の中心部をなしています。中世以来の歴史ある地域で、武士の一族・中野氏が治めてきました。中野氏代々の居館があった中野館(なかのだて)跡は現在、南郷公民館中野分館となり、地域の活動拠点となっています。南郷アートプロジェクトでは2014年、中野小学校(2016年3月31日閉校)を舞台にした映画(「あなたとわたし、ワルツ」)を制作しました。
※参考:南郷村史(1995)

EPISODE 01

おんなの道は一本道 その1

カッコーの声がこだまする山間の集落に、木村タヨさんの暮らす家があります。居間の壁にはこんな言葉が書かれた樺細工の額縁が。

『この道より我を生かす道なし。この道を歩く』

タヨさんの人生はまさに、武者小路実篤の名言そのまま。どんなに辛いことがあろうとも、しぶとく辛抱強く、1本の道を歩いてきました。

昭和9年、同じ中野地域内の集落に農家の長女として生まれたタヨさん。小学3年生の時に父が亡くなると間もなく、母も生まれたばかりの妹を連れて実家に帰ってしまいます。厳しい祖父母の仕打ちに耐えかねてのことでした。

残されたのは8歳のタヨさんを筆頭に、6歳の妹、4歳の弟。長男だった父が亡くなり、次に家を継いだ叔父も祖父母も、幼いきょうだいに優しくしてはくれませんでした。食べていくには、とにかく働くしかない。

妹に家事と弟・いとこの子守りを任せ、タヨさんは祖父母とともに田や畑に出て朝から晩まで働きました。ヒエ、アワ、小豆に米。ヒエはたくさん蒔いてセイロ(物置)に貯めます。保存がきくので、3年、5年と経ってからでも売ることができる大事な商品なのです。年を経るうちに祖父の体が弱ると、叔母が家族に黙ってセイロのヒエを売り、代金を懐に入れているのを成長したタヨさんは知っていましたが、誰にもそれを言うことはありませんでした。

EPISODE 02

おんなの道は一本道 その2

次から次へと申し付けられる仕事に、酒を飲んでは暴れる叔父、手を差し伸べてはくれない大人たち。しかしタヨさんは、「負けてたまるか」と歯を食いしばりました。

「辛さに負けたら死なねばなんねぇもの」と、今では冗談のように話します。命をかけて働きぬいた少女の、芯の強そうな面影が見えました。

中学卒業後も、一生懸命に農作業をしていたタヨさん。現在の夫・鉄男さんの親戚がその姿を見て、「嫁にもらったほうがいい」とすすめたのが木村家との縁となりました。

嫁いだのは18歳の時。しかし結婚から数年間、なかなか子どもを授かりませんでした。病院に行くと原因は、「幼少期の過酷な環境による重度の冷え性」とのこと。

「真冬でもきょうだい身を寄せ合って、藁布団1枚でしのいでたんだもの。親がいれば心配して着物の一枚も着せてくれたかもしれないけど」とタヨさん。

しかし3年後、ようやく待望の長男を授かると、その後は次男、30代半ばで長女も生まれました。産後は毎回、せんべい汁をもりもり食べて、米の粉をお湯に溶いた汁を毎食、丼3杯おかわり。南部せんべいは当時のポピュラーな出産祝いでしたし、米の粉を溶いた重湯は、お乳の代わりに赤ちゃんにも与えられる栄養食でした。

農家の産休は40日間が相場。この期間だけは野良仕事や家事から解放されました。タヨさんも英気を養い、40日後には元気に現場復帰を果たしたそうです。

EPISODE 03

おんなの道は一本道 その3

平成9年、中野に「道の駅なんごう」がオープン。60代のタヨさんは誘われて加工グループに入り、それまでの栽培→収穫→農協に出荷だけではない、新しい農業のかたちに触れていくことになります。

産直の研修で訪れた福島でそば打ちを教わるとすぐに道具を買い揃え、独自に研究。今では地域で知られたそば打ち名人の1人です。70代で、今度は修学旅行や研修旅行の学生を受け入れる農家民泊も実施。実際に岩手県の農家民泊施設に泊まるなどして勉強し、農作業や料理を若い世代に伝えました。

83歳になった今でも、朝4時に起きて畑の草刈りをするのが1日の始まり。田んぼ50アール(5000㎡)で米を作り、家の裏山にはブルーベリー500本。きゅうり、トマト、アスパラにきぬさや、桃、食べたい野菜や果物は自分で作り、余れば産直に出荷とあっては、ゆっくりお茶をすするような暇はありません。70代に入ってからビニールハウスを新設したり、産直に出すブルーベリーの保存のため、昨年は冷凍庫も購入。同年代はすでに農業を引退している中、まだまだ現役、ますます現役のタヨさんです。

「食べたいものを食べて、働きたいだけ働いて。今が一番幸せ。いつまでも働いて、嫁の仕事が死ぬまで続くようなもんだけど(笑)。でも何もすることなくなったらつまらねぇ。隠居しないから元気でいられるんだべね」

EPISODE 04

おぶすな様が見てる

旧中野小学校の裏手にある中野月山神社。伝承によるとその昔、征夷大将軍・坂上田村麻呂が東征中に眼病を患ったものの、神社の御神木であるケヤキの根元から湧き出る清水で目を洗ったら全快したのだとか。昔から眼病にご利益のある神社、”中野のおぶすな(産土)お薬師さま”として、厚く信仰されてきました。明治初期、廃仏毀釈によって現在の『中野月山神社』という名前になりました。

中野の人々に古くから親しまれてきたこの場所、タヨさんにも思い出があります。

中野月山神社の例大祭は5月8日。この日は宿の家(当番の家)がお神酒や煮しめなどのおつまみを用意し、お供えする決まりになっていました。このお供えは縁日に集まった男女、誰でもご相伴OK。ただし大人が飲食するものなので、タヨさんたち子どもの役割といえば、空の重箱や空き瓶を下げてくるだけ。食事はヒエが半分も混じったごはんや漬物。おやつも自由に食べられず、いつだってお腹を空かせていたタヨさんたち、こんなおつかいが面白いはずはなく、一緒に行った妹といつしかケンカに。

「オラがこっちを持つ」「オラだってこっちがいい」とお互いに軽い方を持とうとして、最後には姉が根負けです。妹は手ぶら、タヨさんがありったけの空き容器を抱えて帰るはめになってしまったのでした。

伝承によれば、産土(うぶすな)様は子どもが大好き。昔々、子どもたちがご神体で遊んでいたのを見て村人が叱ったところ、子どもたちは元気なのに、逆に注意した村人にバチが当たって病気になってしまったとか。神様はきっと、姉妹のささやかなケンカもほほえましく見守っていたことでしょう。

※「産土(うぶすな)神」とはその人の生まれた土地を守る神様のこと。

EPISODE 05

初蒔き鳥トトン

また月山神社例大祭の5月8日といえば、ちょうど南郷が遅い春を迎える頃。農家にとって「この日に野菜の種を蒔くとよく育ち、よく実がつく」と言われる大事な日でもありました。

このような言い伝えは他にもあって、たとえば「トトン、トトンと鳥が鳴けば初蒔き」、次に「カッコーが鳴くと田植え」、そして「“ヤゲ”が鳴くと米に実が入り始める」。

いずれもタヨさんが子どもの頃に地域のお年寄りたちから聞いた話です。じゃがいもやささぎ豆、ヒエなどはその鳴き声から“トトン”と呼ばれる鳥が鳴く頃に種を蒔くとよく育つ。

カッコーが鳴き始める時期は、田植えにぴったりのタイミング。

“ヤゲ”とは、「ヤーゲー」と聞こえるように鳴くセミのことで、初夏にその年一番のセミが鳴く頃は、稲が田んぼに根付き、分けつ(茎の根元が分かれて新しい茎が出てくる)、幼穂形成(茎の中で穂を作る準備をする)の時期。

タヨさんによれば、近年は地球温暖化のせいか、種蒔きや収穫などの時期はこの通りとはいかないようですが…。経験と実践の中から法則を見つけ出す先人の姿勢は、見習いたいものです。

EPISODE 06

校庭つくろう!

中沢中学校は、旧中沢村に属していた中野・市野沢・鳩田地域の子どもたちが通う学校。タヨさんはその中沢中学校の1期生です。

「オラもだけど、みんな勉強不足だな。だって教室がないんだもん(笑)」とタヨさん。当時の中沢中は、校庭も校舎すらもないスタートだったといいます。午前中は小学校の校舎を借りて授業、午後は生徒たちが総出で、畑を校庭にするため整地するのが日課だったとか。

「むしろを四角に巻いて縄つけて、肩から掛けて引っ張るのさ」

各学年100人ほどは生徒がいたから、合わせて300人。隊列を組んで作業を進めれば、大きな力になったことでしょう。

しかし、そうして苦労の末に完成した新しい校庭や校舎に、タヨさんは半年も通ったでしょうか。すぐに卒業の時期を迎えてしまいました。

実は中野小学校時代、タヨさんの成績はクラスで1番。けれど父が亡くなり、本格的に野良仕事をするようになってからは、学校を休みがちに。3日も休むと勉強についていけなくなり、成績も急降下。中学を卒業する頃には最下位になっていました。負けん気の強いタヨさん、「もっと勉強したかった」と悔し泣きに泣いたといいます。もっとも学校に行けば行ったで、「親のない子」とからかう同級生に耐えなくてはなりませんでしたが…。

子どもが労働力としてあてにされていた時代。タヨさんのように家業の手伝いのために学校に通えず、勉強することや進学を諦めた少年少女は当時、少なくありませんでした。

EPISODE 07

もっと、ほっと。やなぎばっと

料理上手としてちょっと有名なタヨさん。レパートリーの中から「やなぎばっと」と「干し餅」の簡単なレシピを教えてもらいました。

まず「やなぎばっと」について。「はっと」はもちろん帽子のことではなく、南部弁で、そばや麦でできた麺を指します。『ほうとう』が訛って「はっと」になったとか、切りそばを食べることが贅沢だとして禁止され、禁じるという意味の『ご法度』からきているとか、由来は諸説あります。

中でも「やなぎばっと」は、そばを切った形が柳の葉に似ていることから名づけられたとか。作り方はシンプルです。そば粉をこねたら棒状にし、平たく伸ばして切る。高菜漬け、凍み豆腐、ニンジンやゴボウなどを入れて、煮干しや昆布のだしで煮る。肉は基本的に入れません。

ポイントは、生地をいったん茹でることをせずにいきなりだしで煮ること。

「茹でたのと違って、とろみが出ておいしいんだ。寒い冬にはこっちのほうが体もあったまる」とタヨさん。そのまま煮込めばそばの栄養成分も丸ごと摂れそうですね。昔は、晩ごはんのボリュームが足りない時によく作ったのだとか。

EPISODE 08

進化する干し餅

次は「干し餅」。冬、ついた餅を軒下に吊るし、寒気を利用して冷凍&乾燥させる干し餅は、北国では昔からよく作られてきた保存食であり、おやつです。噛みしめるほどに出てくる素朴な甘さが魅力。油で揚げて食べてもオツなものです。二十四気のうち、一年中でもっとも寒い時期である寒中(立春前の約1ヶ月間)に作ります。

白いお餅に黒ゴマを混ぜたものが一般的ですが、タヨさんは生地に自家菜園でとれたカボチャやブルーベリーを練りこみ、風味のバリエーションを楽しんでいます。また、タヨさん特製の干し餅は食感もひと味違う。昔ながらのガチガチの固さ(南部弁のオノマトペでは「ガックラガックラ」と言います)にせず、ショリショリと軽い噛み応えが特徴です。

その秘訣は、おからを生地に練りこむこと。しかもそのまま入れるのではなく、煮てトロトロに溶かしたところを餅に混ぜ、機械で練りあげるのです。おからの分量は企業秘密!練りすぎずちょうどいい固さを見極めて餅を取り出さないと、固くなってしまうので注意が必要だとか。餅を切り分ける時は手早く、かつ丁寧にしないと、切り口がザラザラになって舌触りが悪くなる。急激な温度変化があると餅が割れるので、気候を見極めなくてはいけない…など、シンプルなだけに奥が深いのが干し餅の世界。

近年はあまり冷え込まないので、冷凍庫で凍らせた後、軒下に吊るして乾燥させているそう。時代とともにレシピを進化させているタヨさん。その探究心は衰えることを知りません。

参考:北のコナモン情報サイトhttp://www.ukipal.jp/kitakona/

EPISODE 09

“新しい”中野つくって40年

中野地域のイベントを行ったり、住環境を整備したりする「新しい中野づくりの会」。”新しい”と言っても、今年で42年目を迎える歴史ある会です。稲垣賢治さんはその会長を務め、地域のさまざまな世代をまとめています。

会の活動内容は新年会に始まり、毎年1月第3日曜日開催の「そばを楽しむ会」、田植えや刈り取り体験などの子ども会活動、お盆には夏祭りにビアガーデン。ゴルフ、ソフトボール、野球といったスポーツレクリエーションに、9月は南郷体育祭。各種” 打ち上げ”と称する飲み会(笑)。資源回収活動、活動拠点となっている南郷公民館中野分館の管理、平成28年に閉校した旧中野小学校の草刈りほか環境整備。さらに地域の2つの伝統芸能、「中野神楽」と「大平大神楽」の統括…。とにかく盛りだくさんです。

「何もやらなければ面倒がなくていいんだけどさ(笑)。何かやらないとつまんないから」とニコニコ話す稲垣さん。青年部・婦人部・老人部まであり、9つの部会に分かれてこれらの活動をしているわけですが、失礼ながら過疎化が進む農村地域のこと。人出はどのようにまかなっているのでしょうか?

と、尋ねてみると、なんと会のメンバーは地域住民全員!約170世帯ある中野の全世帯が年会費2,000円で加入し、運営しているとのこと。町内会にも入らない世帯が増え、地域のつながりが希薄になっていると言われる中、中野はちょっと特殊な気がします。

「う~ん…よくわかんねぇけどなぁ。中野の人はわりと明るいんじゃないかね。真面目に話すときは俺も怖いんだよ、本当は(笑)。でも一度決めたらみんな楽しく飲む。とにかく面白く、楽しくやりたいじゃない?」と稲垣さん。

その時でした。突如として鳴り響くセミの声!しかし取材は2月。中野ではずいぶんセミが早く鳴くらしい…と思うとそうではなく、稲垣さんの携帯電話の着信音でした。

その場にいた全員が思わずあたりを見回していると、いたずらっぽく笑いながら電話を取った稲垣さん。こういう遊び心が、中野人の気質の中にはあるのかもしれません。

EPISODE 10

22歳、神楽に恋して

八戸市が民俗文化財にしている南郷の伝統芸能は6つ。うち「中野神楽」と「大平大神楽」が、ここ中野に伝わっています。ちょっと聞いただけでは同じように思えますが、稲垣さんによると”神楽”と”大神楽”では、実はルーツが違うそう。

まず、神楽は東北地方をめぐる山伏が伝えたもので、「山伏神楽」とも呼ばれます。ご神体の獅子頭を被って踊る「権現舞」をはじめさまざまな演目があり、八戸三社大祭では法霊山おがみ神社の神楽組が隊列を組み、一斉に歯を打ち鳴らす「一斉歯打ち」が人気。

中野神楽の場合は中野月山神社、お隣、市野沢地域にある市野沢稲荷神社、岩手県北の軽米八幡宮例大祭などで神楽を奉納しているそうです。

一方の”大神楽”は「太神楽」とも書き、伊勢神宮や熱田神宮の信仰と獅子舞が結びつき、芸能として発展したものといわれます。獅子舞で悪いものを祓うという意味で、八戸三社大祭では各神社行列の先頭を切り、神輿が行く道を清める役割を担っています。

大平大神楽の場合は毎年1月に春祈祷を行い、2月の第1週に行われる冬の風物詩、南郷郷土芸能発表会に出演したりもします。

稲垣さんは父の代から2代続く、大平大神楽の演じ手。新しい中野づくりの会には郷土芸能の部会もあるので、神楽業界(と呼ばせていただきます)全体の未来を見つめています。どの神楽組でも、共通する課題はメンバーの高齢化と後継者不足。会の活動の中で機会をとらえて若手を勧誘しているほか、中野神楽は南郷小学校の子どもたちに教える活動も行っています。

獅子頭を被る舞い手は男性しかできませんが、太鼓・鉦・笛のお囃子は男女の制限はありません。最近の明るいニュースは、稲垣さんの22歳の孫娘が、笛吹きとして大平大神楽に参加するようになったこと。高校生の頃から八戸三社大祭のお囃子に参加して笛に親しみ、地元の神楽に興味を持ったそうです。

「おじいちゃん、笛買って♡」 そうおねだりされて、お店で一番高価な笛を買ったという稲垣さん。苦笑いはすぐに、心からの笑顔に変わりました。

参考:
八戸市HP「南郷の民族文化財」
http://www.city.hachinohe.aomori.jp/index.cfm/12,72788,129,63,html
八戸観光Navi「八戸三社大祭」
https://hachinohe-kanko.com/10stories/hachinohe-sannshataisai/sansharekishi

タヨとケンジ

昭和32年に中沢村と島守村が合併し、南郷村が誕生。それまで中沢村の中心だった中野地域では、エリア内全世帯が会員という「新しい中野づくりの会」を中心に住民同士のコミュニティがしっかりと築かれています。夏祭りにそば打ち、毎年恒例のイベントでは老若男女が盛り上がり、「中野神楽」に「大平大神楽」と伝統芸能もさかん。
そんな中野でライフストーリーを聞かせてくれたのは、農業一筋の木村タヨさんと、地域づくりのキーマン・稲垣賢治さん。70代と80代。家庭で、地域でまだまだ現役で活躍する2人を見ていると、中野地域が元気な理由も分かったような気がしました。

  • 木村タヨさん(83)

    木村タヨさん(83)

    昭和9年生まれ。中野で生まれ育ち中野に嫁いだ、生粋の中野人。8歳で父を亡くし、まもなく母と生き別れるも、幼い弟妹を守って働きぬいてきた。「辛抱強く働き者」と全国的にも呼び声高い、南部(青森県南部)女性の鑑のような人。

  • 稲垣賢治さん(71)

    稲垣賢治さん(71)

    昭和21年生まれ。中野地区大平(おおたい)で燃料・肥料など農業関係の品を扱う稲垣商店を営むかたわら、「新しい中野づくりの会」会長を務める。若い頃から地域の盛り上げ役で、同会青年部を立ち上げた。伝統芸能である大平大神楽には父の代から参加。

※2016年、2017年の取材時の情報です。

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