南郷アートプロジェクト2019|見つけに行こう、まだ知らない南郷を。

なんごうの物語

田代のものがたり

たしろ

青森県八戸市と岩手県久慈市を結ぶ、全長約80キロの久慈街道。 江戸時代、八戸藩の重要な街道の一つで、この道を通って八戸港に運ばれた雑穀や木材などが、さらに船で江戸や大坂などの都市に輸送されました。 現在の青森県道・岩手県道11号八戸大野線が、その一部にあたります。 田代は、この久慈街道沿いに発達した集落。 三戸郡階上町や岩手県の軽米町と接し、交流も自然に行われ、これらの地域から田代に嫁入りした人も多々。 開けているのは道だけではないようで、取材に応じてくれた方々もオープンマインド。笑いが絶えない時間でした。

EPISODE 01

忘れられた花嫁

「何で嫁に来ましたか?」 お嫁ーズにこの質問をすれば、年齢がだいたい分かります。

たとえば、ある80代後半のご婦人の答えは「馬車」。新婦は黒い留袖姿、馬にはガランゴロンと派手に鳴る鈴をつけ、通りを行けば注目の的。2台、3台と連ねた馬車に嫁入り道具を積み込んで、両親が一世一代の覚悟で買った長持(衣類を納めるための大きな箱)、箪笥がひときわ目につきます。

長持ちや箪笥を嫁入り道具とするのは、現在の80代ぐらいまでは田代の、そしておそらく南郷全体でも一般的な風習で、お嫁―ズメンバーも所有している人が多数。しかしその後、和服から洋服になるなど生活習慣が変化する中で、めっきり出番がなくなってしまったとか。漆塗りの立派な箪笥を「薪代わりにして蕗でも煮ようかな」と話す人も…。なんとももったいない話です。

一方、70歳前後ともなるとぐっと現代風に。嫁入り時には「タクシーでお迎えに来てもらったわよ」とのこと。しかしなぜか「夜中の12時に」って、一体何があった!?

なんと、新郎側の関係者を集めて行われる”嫁取りの宴会”で仲人さんが酔っぱらい、肝心のお嫁さんを迎えに行き忘れるというアンビリーバブルなミス! しかも「嫁は宴会のお膳に手をつけるものではない」と親に言い含められていたものだから、この花嫁さんは式の間中、飲まず食わずで過ごしたそう。

最初は付け下げ、次は留袖、さらに普段着…とお色直しをしてきれいに着飾っても、かわるがわる襲い来る空腹&眠気と戦っていては、「ずーっとにっかみ面(仏頂面)だった」と当時を振り返るのも当然です。宴会は夜通し行われ、空が白む頃、ようやくお開きとなったのでした。

EPISODE 02

ウェディング絶賛ロングラン中

お嫁ーズの娘時代、結婚は親同士や仲人さんが決めるもの。お見合いの席すらなく、「式当日に初めて顔を合わせた」というケースは珍しくありませんでした。地域を挙げてのビッグイベントである結婚式では、出席者がここぞとばかり飲めや歌えや。新郎・新婦が誰かなど、分からなくなってしまうほどに。

あるご婦人などは、式の最中に叔母さんに「どの人がだんなさんだ?」と聞かれても、「うーん、オラ分からねぇ…」

そのまま宴席は終了し、翌朝。親戚を送り出し、水をくもうと庭に降りていくと、前掛けをかけた若者が一人、井戸端に立っています。誰だろう?

首をかしげていると声をかけられ、そこで初めて若者が昨夜、結婚式を挙げた相手であることが判明しました。

「じゃあ、結婚式の晩は一緒の部屋にいないの?」と村松さんが鋭い質問を投げかけると、「いきなりダブルベッドで寝るなんて、あんただけだと思うよ(笑)!」とお嫁ーズ。

というのも当時、結婚式当夜は夫婦別室がならわし。花嫁は実家から来た親戚と同じ部屋で休むことになっていたそう。翌日は夫婦揃って新妻の実家へ出向き、今度は妻方の関係者と顔合わせ。ここでもまた一席設けます。夫婦の親戚も帯同して、一行はあちらで宴会し、こちらで一杯飲み、と行ったり来たり。数日かけて往復し、落ち着いたところでやっと本格的な新婚生活が始まります。

このロングランな宴会の風習、「結婚は家同士の結びつきだから交流を深めないと」というのもあるでしょうが…。「結婚をダシに、できるだけ長く宴会を楽しみたかった大人たちの作戦ではないか!?」という見方も、あながち外れじゃないかも?

EPISODE 03

引き出し妻

昭和16年(1941)12月、日本海軍がハワイ・オアフ島にあったアメリカ海軍軍港を攻撃した真珠湾攻撃で、太平洋戦争が始まりました。4年後の終戦時、重蔵さんは高等科(旧制国民学校の上に設置され、新制中学の母体となった2年間の過程)2年、英一さん、隆さんは小学4年生。戦時下で小学校時代を過ごした3人、「とにかく食べるのが第一。勉強どころじゃなかった」と話す口調には実感が込もります。深い井戸の底から水をくみ上げるには、36回、「つるべ」を引き上げなければなりません。当時の農村では曲がり家に農耕馬と暮らしていたから、つるべは一般的なものの倍の大きがありました。小柄な体でつるべを引きずるようにして、やっとのことで水を運びます。近くに川があり、水に不自由しない集落から嫁いだ身では、井戸の水くみはことさらに堪えたと、お嫁ーズの一人は話します。

「出はったり入ったり、私は引き出しよった(引き出しみたい)嫁だった」

きつい仕事と慣れない人間関係に何度も何度も泣いて、飛び出して実家に帰ったのも1度ではありませんでした。夜、明かりのない県道を歩いて実家まで戻ったといいます。

「普通の人だったら暗くて怖いんだろうけど、そんな時は『もうどうとでもなれ』と思ってるから何にも怖くなかった」

実家に着いたのは夜9時。今ではさほど遅い時間ともいえませんが、昭和30~40年代の感覚からすると深夜です。こっそり押し入れから布団を出して寝ていると、翌朝、家人が発見して仰天。昨夜は何も食べていないと知るや、慌ててごはんを食べさせてくれました。

「もう絶対に戻らない!」と頑張っても、実家の両親に説得されては戻らざるを得ません。

「『今1回、もう1回だけいて、それでダメだったら戻って来ていいから』って、父親の『今だけ』に負けたのよ」

「田代さけねば(嫁にやらなければ)良かったかなぁ。あれさへっちょはかせるな(苦労をかけるな)」と、父が案じていたことも、父が亡くなった後で初めて、母から聞かされました。けれど嫁いで半世紀が経った今では、それもこれも「笑い話よ」互いの苦労をねぎらい合うように、みんな目を見合わせて笑います。

逆境は、立ち向かうばかりが能じゃない。すべてを受け容れ、辛抱強く歩を進める。そんな強さもあるのだと、お嫁ーズが教えてくれました。

EPISODE 04

田植え今昔

昭和50年代前半、田代を含む八戸地方の田植えは人の力で行われていました。苗の感覚を一定にするため、田んぼに目印をつける農具「型っこ」が農家の必需品。これは3列に渡した角材の四隅を金具で留めた、長方形の木枠のようなものです。枠の中には、竹またはそろばん珠で作ったコブのようなものが20センチ前後(6寸5分~7寸)の間隔で並んでいて、これが苗を植える目印になります。

手順はこう。まず型付け係が型を田んぼに置き、印をつけたら手前に引っ張る。すると、四隅についた金具を支点にしてパタンと倒れる。これを繰り返して、田んぼの奥から手前へガイドをつけます。その後、苗かごを腰につけた田植え係がいよいよ植え付け。一度に10人ぐらい並んで型付け、植え付けをしていきます。

機械化された現在からすると、気が遠くなるような手間ひま! なるべく早く作業を終えるためには、人手と熟練の技が必要です。だから田代のような農村では、親戚やご近所さんと「結(ゆい)っこ」と呼ばれる互助会を結成して、持ち回りで田植えや稲刈りを行いました。

ここでも大活躍なのが女性たち。多い時には25人分にもなる食事の支度は嫁の仕事です。朝食は各家で済ませてくるとして、10時のおやつ・昼食・3時のおやつ・夕食の計4食を出さなくてはなりません。お餅、お赤飯など、おやつまで手作りするのが大変だったと、村松さんは振り返ります。

田んぼの作業が終わっても嫁の仕事は終わらない。夕食後すぐ翌日の仕込みです。夜9時頃から餅つきをしても翌朝3~4時には起床と、眠る暇もない忙しさ。

田植えはその後、さまざまな変化をたどります。外側を多角形にして回転しやすくした改良版の型や、円形にした自在型付機が登場したり、植え縄を使って型を付ける方法が広まったり。腰につけた苗かごから苗を取り出していたのが、20センチくらいの木船を作って苗を運ぶ船植えも出てきました。植え付け方法も、植える間隔を従来より10センチくらい広げた(9寸~1尺)「並木植え」が定着し、その後の機械化の時代を迎えました。

EPISODE 05

豚も気が向きゃ帰ってくるさ

食事の支度をする身からすれば、田植えで辛いのが悪天候の場合だといいます。前日に一生懸命準備しても、雨で田植えが中止となればすべてはムダに…。雨でジメジメしていると余計に食べ物が傷みやすく、ひと鍋丸ごと、泣く泣く捨てたこともあったとか。

この最悪の事態を防ぐためには、残飯処理班にお願いするしかありません。というわけで当時、村松家は豚を1頭飼っていました。ご近所さんまで残飯を持ってくるので、初めは可愛い子豚ちゃんもみるみる成長。養豚業を営む知り合いに「こったに(こんなに)大きくしないうちに売ればよかったのに」と言われるほど立派になりました。

そしてこの豚さん、手ごわい。新参者を見くびってか、村松さんが家に一人になるのを見計らっては逃走を図ります。

「あんたとこの豚が逃げてたよ~。畑を荒らすと困るから連れて帰って」とご近所さんに声をかけられても、豚の扱い方が分からず困り果てる村松さん。ご近所さんはこともなげに「残飯を持っていれば豚はついてくる」とアドバイスします。

村松さん、さっそく子どもをおぶって残飯の桶を手に、捜索を開始。小中学校の校庭をのんびり散歩する豚さんを見つけました。エサを見せて呼びかけてもどこ吹く風。じりじりと待っていると、しばらく経った後でようやく家の方向に歩きだしました。事故にも遭わず、暴れることもなく、その足取りは確かなもので、「家をちゃんと覚えていて、用が済んだから帰るんだと、そんな風にしか見えなかった」と村松さん。

一説によると、豚はチンパンジーや犬よりも賢い…とか? 村松家の豚さんはその後も脱走を繰り返しては、きちんと戻ってきたといいます。

EPISODE 06

香ばしく夏を運んで麦香煎

ガールズトークで盛り上がるのに、スイーツの話題は欠かせません。中でもお嫁ーズが特に盛り上がっていたおやつがありました。

それは「コウセン」。耳慣れないですが、漢字もちゃんとあって「香煎」と書き、別名「はったい粉」、「炒り麦」。麦を炒って粉にしたものです。大豆から作られるのがきな粉、大麦から作るのがコウセン。見た目や風味は、きな粉に似ています。俳句の夏の季語にもなっているので、夏の風物詩として広く知られたものだったことが分かります。お嫁ーズによるとその名の通り、香ばしさが最大の魅力だとか。

気になる食べ方はといえば、砂糖と混ぜ、水やお湯を入れて練って食します。水分少なめ、固めのボソボソした感じに仕上げるのが好きな人もいれば、トロトロ食感が好みという人もいて、単純なだけに奥が深いもよう。しかし集まった20名弱の中で多数決を取ってみると、”ボソボソ派”が大半を占めました。

皆さん、今も夏には毎年食べるとか。80代になってもなお畑仕事にいそしんだり、自分の足で歩いてこうして集会に参加したりできる元気の秘訣は、食生活にあるのかもしれません。

今でもテレビCMなどで「夏は麦茶、ミネラル豊富!」とやっているのを見かけますが、そこへいくとコウセンも負けていません。大麦のミネラルや食物繊維、汗で失われるカリウムをもおいしく手軽に摂取できちゃう、先人の知恵が詰まったスイーツなのです。

ちなみに蛇足ですが筆者も子どもの頃、南郷・泥障作出身の祖母に作ってもらって食べていました。20ウン年前のことですが、味は、例えるならば、駄菓子屋で売っている1本10円当たりつきの「きなこ棒」。水分を含ませたときのニチャニチャとした食感も似ていましたね。

EPISODE 07

喜びも悲しみもせんべいの味

村松さんが嫁いで間もない昭和50年代半ば、お店に、白せんべいを50枚、100枚と” 大人買い”しにくる女性たちの姿がありました。「白せんべい」とは、南部せんべいの一種です。麦粉と塩、水だけを使って焼き上げた、素朴な南部せんべいの中でさらにシンプルなタイプ。八戸地方の人々の生活に密着した食べ物とはいえ、一度にそんなに大量購入する人を見たことがなかった村松さん。「何に使うの?」と尋ねると、「産と(産後)見舞い」との答えが返ってきました。

「もう少しいいものを食べさせてあげればいいのに…」と思ってしまいますが、春~夏にかけて太平洋から冷風「やませ」が吹き、米があまり取れなかった当地では、小麦を練り固めた白せんべいはむしろ、効率よくカロリーが取れる栄養食。昭和50年代当時、すでに食糧事情は改善していたはずですが、それでも「産後見舞いは白せんべい」の風習は南郷に残っていました。米粉や手作りの焼き麩なども、産後のお祝いに使われたとか。

南部せんべいは、お葬式の時にも登場。

お葬式や法事で、長老の「ナムアミダ~ブツ♪」の節に合わせて10メートルはあろうかという大数珠を回す「数珠回し」。南郷のどこの集落でもしていた伝統行事で、田代でも人が亡くなると3日間行われました。100回回し、最後に逆回しに3回回します。何回回したかは、マッチ棒を使って場のリーダーがカウント。

ルールは厳格で、数珠をまたぐ、飛び越す、上から掴むのは禁止。数珠は下から捧げ持ち、横切る際には下をくぐる。途中、ひときわ大きな数珠玉が目の前に来たら、仏さまを喜ばせるという意味で投げるような仕草を入れます。

このどこにせんべいが要るかといえば、老若男女が車座に座った輪の真ん中に、位牌とともに厳かに置かれるのです。枚数は49枚。せんべいを載せるお盆は丸いものと決まっていて、1セット回し終わったら、全員で残さず食べました。

人生はせんべいに始まり、せんべいに終わる?八戸地方の暮らしのそばには、いつも南部せんべいがあった。まさにソウルフードなんですね。

EPISODE 08

田代“町”の絆

せんべい屋が2軒、床屋が2軒、精米所が2軒、電器屋も2軒、お菓子屋、旅館、診療所、警察、消防署…。かつて、田代にはさまざまな業種があり、集落は一つの町として機能していました。お嫁ーズは娘時代、嫁ぎ先を聞かれると、「田代”町”に嫁に行く」と少し胸を張って答えたものです。

なぜそのようににぎわったかといえば、藩政時代から青森県南と岩手県北を結んできた久慈街道の休憩地点だったから。富山の薬売りが行商に来れば、田代の旅館に宿を取ったし、街道を通る人々もまた同じでした。

昭和20~50年代頃の田代は、通り沿いには隣の家がくっつくくらい、びっしりと家が建てこみ、現在は階上町になっている分もあわせて20軒ほどが軒を連ねたとか。村松さんのお店から約200メートルのところに以前は床屋さんがあり、そこから駐在所までの約500メートルがメインストリートになっていました。”田代銀座”というわけです。

“田代町”では保育園代わりの児童館にいつも歓声が響き、子どもたちは児童館、小・中学校と12年間、幼なじみと一緒に過ごします。入学式にはお嫁ーズはみんな、一張羅の着物に羽織で出かけました。忙しい親たちが送り迎えをしなくても、子どもたちはヘルメットを被って仲間と自転車通学。集落の人々が声をかけあい、自然と大家族のような雰囲気が生まれていました。

男性陣が寄り合いを開くことはあっても、女性たちが定期的に集まるのは、南郷全体の中でも珍しいこと。今回お話をうかがった田代農村婦人の家では、月に1度は集まって手芸やゲーム、食事の会を開いているとのことで、お嫁ーズの結束の強さが伝わります。

毎年お盆の8月14日には、「田代夏祭り」も開催。大人も子どもも約1カ月かけて山車制作やお囃子の練習に励み、当日は山車を引いて集落を練り歩きます。ここ20年ほど続くお祭りですが、生まれも育ちも田代という昭和4年生まれのご婦人によると、大正時代にも山車祭りが行われていた時期があったそう。

昭和50年代を境に集落の人口が減って、バスの本数も減るなど、寂しい現状もあります。けれども、田代の自慢は人と人との絆の強さ。それは今も昔も変わりません。

田代お嫁ーズ

集落の中心に学校がある地域は珍しくないけれど、田代小中学校はちょっと変わっていました。 「八戸市階上町田代小学校中学校組合立」。 八戸市南郷と三戸郡階上町、2つの行政区にまたがっているからこその運営方法です。 平成29年3月、同校が惜しまれつつ閉校した後でも、すぐそばに建つ田代農村婦人の家には地域のご婦人たちが集まり、お喋りや食事を楽しんでいます。 そんなご婦人たちを名付けて、「田代お嫁ーズ」。 取材におじゃました日は20人ほどのご婦人から、わいわい自由にお話をしていただきました。誰かと会う、話す、笑う。 シンプルだけど、やっぱりこれが大事だよね、人生!

  • 「みんなの広場」の皆さん

    「みんなの広場」の皆さん

    70歳から80代後半まで、田代地区のご婦人が集まる高齢者サロン「みんなの広場」。月に一度、婦人の家に集まり、食事やレクリエーションなどでひとときを過ごす。画像の一番右下が、今回のコーディネーター役の村松静子さん。八戸市内から田代に嫁いで、はや40年。お惣菜から生活用品まで揃う雑貨店「ファミリーストアむらまつ」を家族で経営するかたわら、「みんなの広場」世話役を務めている。

※2016年、2017年の取材時の情報です。

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