南郷アートプロジェクト2019|見つけに行こう、まだ知らない南郷を。

なんごうの物語

荒谷のものがたり

あらや

八戸市街から車で約20分の鷹巣展望台からは、島守盆地が一望のもとに見渡せます。 緑の田園とたばこ畑。 軽トラックさえのんびりと走る(気がする)ノスタルジックな風景は、まるで『となりのトトロ』の世界。 そんな島守は集落ごとに第一~第十三区までに分かれ、荒谷地区は第七区にあたります。 通り沿いには現役営業中のせんべい屋のほかにも、もと商店と思われる建物がちらほら。 かつては酒屋が2軒、魚屋、雑貨店などがあり、「荒谷銀座」と呼ばれていたとか。 最盛期には70戸ほどが集まる、島守盆地の中核をなす集落でした。

EPISODE 01

おじょう藤九郎と七ノ神

旧南部領地域で広く伝わる伝統芸能「えんぶり」は、1年の農作業を歌と舞で表現し、五穀豊穣を祈願する行事。馬の頭をかたどった烏帽子を被った太夫(たゆう)が主役です。スピード感があり動きの激しい「どうさいえんぶり」、能を思わせる厳かな雰囲気の「ながえんぶり」の2つに分かれ、ここ荒谷に伝わる荒谷えんぶりは前者。

荒谷えんぶりの始まりは『おじょう藤九郎のはなし』として地域に伝わっており、5人ももちろん知っています。重蔵さんが語った、それはこんなお話です。

昔、荒谷のおじょう藤九郎という男がえんぶりを始めました。島守には7組のえんぶり組ができ、藤九郎は7組を束ねる親方となって、南部の殿様が訪れた際にも舞を披露するなど力をつけていきました。しかし他の地区のえんぶり組から妬まれ、あるとき藤九郎たちが八戸に門付けに行っている間に、荒谷一帯が焼き討ちにあってしまいました。

責任を感じた藤九郎以下7人の親方は自害。オンコ(イチイ)の大樹の根元に埋葬されました。村人は遺された7つの烏帽子を祠に祀り、えんぶりの神「七ノ神」(しちのかみ)と呼びました。

祠はのちに「えんぶり伝承館」として建て替えられ、現在の建物は昭和56年に建てられたもの。オンコの巨木の樹齢は推定400年とか。そばにはおじょう藤九郎の名前にちなんだ「おじょうかあの湧き水」と呼ばれる井戸があり(「かあ」は方言で河原のこと)、今もこんこんと水が湧き出しています。

伝承館は四畳半ほどの小さな小屋ですが、重蔵さんたちはかつてここでえんぶりの練習をしていたとか。今は金作さんの息子さんが太夫、中学生のお孫さんもえんぶり組に入り、未来の太夫を目指して修行中。えんぶりの神に見守られながら、親子3代で伝統を継いでいます。

EPISODE 02

荒谷えんぶりと島守神楽

重蔵さんは南部手踊りと荒谷えんぶりの師匠。「伝統を潰えさせてはいけない」と20歳の頃から地域の長老たちに習い始め、キャリアは60年を越えます。荒谷えんぶりが昭和54年、「八戸えんぶり」として広域で国指定重要無形民俗文化財の指定を受けた当時、組の代表を務めていたのが重蔵さんでした。

えんぶりには「なが」と「どうさい」があるというのは前章のとおりですが、そめさんに言わせれば、荒谷えんぶりの特徴は「キビぁいい」。テンポがよくダイナミック、見ていて「気持ちがいい」ってことです。

一方、島守神楽を再興した立役者は金作さんです。八戸市史をひもとくと、「島守神楽は120年以上の歴史を持ち、荒谷では新山権現の獅子頭を川に入れて雨乞いをしていた」との表記が見つかりますが、昭和30年代から40年間中断。金作さんたち島守神楽保存会が立ち上がったときには資料も衣装もなく、かろうじて荒谷に残っていたのは権現様(獅子頭)だけでした。そこで保存会メンバーは岩手県北の軽米町や、八戸三社大祭の見どころの一つとなっている「法霊(ほうりょう)神楽」を習得して手本とし、復活にこぎつけました。

2人が口を揃えて言うのは、「えんぶりがあったからこそ神楽が復活できた」ということ。えんぶりの笛の演奏者が神楽の笛を吹いてくれたりと、兼任メンバーが多いのです。

えんぶりと神楽のお囃子は似ているので兼任できますが、一番の違いは“間”。金作さんはもともとえんぶりで笛を覚えたので、神楽のお囃子を演奏しているつもりでも先輩方から「お前の神楽笛はえんぶりだ」と指摘されたことがあるそうです。こういった細かいところまで注目して見比べ、聴き比べてみると、様式美に彩られた伝統芸能がより楽しく鑑賞できそうですね。

EPISODE 03

落穂ひろいの秋

昭和16年(1941)12月、日本海軍がハワイ・オアフ島にあったアメリカ海軍軍港を攻撃した真珠湾攻撃で、太平洋戦争が始まりました。4年後の終戦時、重蔵さんは高等科(旧制国民学校の上に設置され、新制中学の母体となった2年間の過程)2年、英一さん、隆さんは小学4年生。戦時下で小学校時代を過ごした3人、「とにかく食べるのが第一。勉強どころじゃなかった」と話す口調には実感が込もります。

学校や民家に日本兵が駐留し、校庭は歩く分のスペースを残して、あとはじゃがいもやかぼちゃの畑に。近所の山は学校所有の畑とされ、生徒も一人前の労働力として開墾から収穫まで働きました。重蔵さんたちもたい肥を背負って山の畑に通い、ときには肥料として畑にオシッコをかけておいたとか。今ではちょっと眉をひそめたくなる話かもしれませんが、当時は人の排泄物もたい肥としてポピュラーでした。

稲刈りの後の落穂拾いも大切な仕事です。病原菌に感染することで起こる「いもち病」にかかった稲は収穫時に穂が落ちてしまうので、その1本1本を拾い集めるのです。集落の子どもたち総出で人海戦術。みんなで一通り拾い歩くだけでも米俵何俵分も回収でき、さらにそれを何度も行って、島守盆地中の田んぼから集めたといいます。

しかし、入学者名簿には当然、成田清一の名前がありません。会場外でおとなしく待っていようとするのに、なぜか受付係が手招き。中に入るよう促されました。

冬はみんなで炭すご(炭俵)編み。刈ってきた萱を使い、講堂で一斉に編みました。

こうなるとまともに授業ができるのは貴重なことですが、その授業中に子どもたちは何をしていたかというと、なんと…釣り。校舎裏の池に窓から糸を垂らし、釣り上げたコイは教室の床でピチピチ跳ねる、跳ねる!竿もエサもなしで入れ食い状態だったということですから、人間だけでなくコイまでお腹が空いていたのかもしれません。

EPISODE 04

ダイナマイト・フィッシング

島守では、川が好きでいつも川にいる人のことを「川ねご」と呼ぶそう。泳いだ後は手づかみで魚をゲット!楽しみと実益を兼ねた川には、そんな川ねごたちが集まります。戦時中に少年時代を過ごした重蔵さん、英一さん、隆さんの話では、こんなこともありました。

いつものように今の集会場の辺りで遊んでいると、突然響き渡る何かが爆発するような音。聞きつけるやいなや、川へと走り出す少年たち。予想通り、川には、3~4メートルもの水柱が次々と立ち上っています。川べりに5~6人の兵士が並び、手榴弾やダイナマイトを浅瀬に向かって投げ込んでいるのです。爆発によって気絶した魚を取って食料にするためです。少年たちは、戦時下で小学校に駐留中の兵士たちがこうして「ダイナマイト・フィッシング」をすることを知っていて、ご相伴にあずかろうと集まってきたのです。「こったらにある大きなマスも獲れた」と、昨日の釣果でも話しているようにうっとりする隆さん。手で示した魚体の大きさは、30センチほどにもなります。

そめさんによると「洗濯していると魚が寄ってきた」。また「潜ると魚がうようよ見えた」と英一さんは言います。ウグイにカジカ、川ガニ、エビに今では超高級食材の天然ウナギまで。澄んだ流れはたくさんの命を内包しており、ダイナマイト・フィッシングはいつも大漁。小さな魚をいただくくらいは見逃してくれます。しかし、30センチもの大物を取ろうとすれば見とがめられ、奪われてしまうに違いありません。そこで少年たちは、大きな魚には重石をして川に隠し、兵士が立ち去った後でこっそり持ち帰りました。

EPISODE 05

こんなトコロにこくぞうさん

京都嵐山の法輪寺、福島県柳津町の円蔵寺とともに「日本三大虚空蔵菩薩」と称される島守の福一満虚空蔵菩薩(ふくいちまんこくぞうぼさつ)。愛称は「こくぞうさん」。「島守春まつり」と呼ばれる例大祭が、毎年6月の第1日曜日に開催されています。古くから地域住民の心のよりどころとなっていたこくぞうさんのお祭りは、八戸をはじめとした青森県南、岩手県北地域から多くの参拝客を集め、今回の語り部たちにもそれぞれに思い出があります。

「バナナ食えば最高だよね」と重蔵さん。価格が安定しているため「物価の優等生」といわれるバナナですが、戦時下で輸入が途絶えてから戦後、昭和38年の輸入自由化をきっかけに価格が下がるまでは高級品でした。子どものお小遣いで買えるような値段ではなかったので、親に手を引かれお祭りで買ってもらうのが、何よりの楽しみだったのです。

一方、金作さんの印象に残っているのは「トコロ」の出店です。トコロ(野老)は、ユリ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属の蔓性多年草。根っこの部分が食用にされ、見た目はショウガに似ています。トコロを食べるのは、青森県内でも南部地方特有の食文化だとか。木灰を入れた湯で時間をかけてコトコト煮込み、冷ましたものを皮をむいて食べます。

こくぞうさんの祭りでは、山から掘り出したトコロを地元のお母さんたちが売る屋台が出ました。気になるお味はというと、「いったん覚えたらやめられない味だよ。ビールのつまみにいい」と金作さん、ニヤリ。

実は筆者も子どもの頃、祖母にもらって食べたことがありますが、お世辞にも「おいしい」とは言えません。甘いような苦いような、薬のような毒のような…。「胃薬代わりに食べた」とか、「煮汁を苗代にかけると天然の殺虫剤になる」という語り部たちの話も頷けます。

しかし、一度食べたら忘れられないインパクトを持っていることもまた確か。集まった語り部たちも5人全員が好物だそうで、その不思議な魅力、いや魔力?のほどがうかがえます。八戸や近隣町村では今でも、春になると産直などでトコロの姿を見かけることができます。

EPISODE 06

ドンマイじょんまい

今ではなくなってしまった行事の一つに、「じょんまい」があります。先祖供養のため彼岸の中日に行われ、集落の男衆が輪になって大数珠を回しながら念仏を唱え、家々を回るというもの。集落を2つに分けたうちの上荒谷から始まって、下荒谷へと続きます。途中、川を渡るとき橋の上でも念仏を唱えたのは、「悪いものが集落に入ってこないように」とのおまじないのようなものではなかったかと、金作さんは推理します。じょんまいの由来は「じょうまえ」だとか。だとすればじょんまいは、集落にガチャリと錠前をかけて悪いものを締め出す、そんな意味を持っていたのかもしれません。

人々が集まり、念仏を唱えながら大数珠を回す風習は「百万遍(ひゃくまんべん)」と呼ばれ、日本全国に存在しています。最近はあまり見られなくなりましたが、八戸市内や南郷地域でも葬儀や法事の席、彼岸などのタイミングで行われてきました。クルミほどの大きさの珠を1,080粒つないだ巨大な数珠の中に1粒だけ大きな珠があり、その部分が回ってくるたびに参加者は捧げ持って礼をし、次の人に回すという具合です。

じょんまいは百万遍とよく似ていますが、大きく違っているのがメンバーです。百万遍が子どもからお年寄りまで誰でも参加するのに対し、じょんまいでは女性は参加できませんでした。誰か一人が所用などで途中で抜けると代わりに一人入り、というように、グループで回るとはいえ、比較的自由な雰囲気で参加できたようです。

男性だけの集落行事となると、終わった後は酒盛りで締めるのが定番ですが、じょんまいに関してはそれがなかったそう。もしかするとアフターの飲み会がないために参加者がメリットを感じられず、それで途絶えてしまった可能性も…?ドンマイ、じょんまい!ちなみにじょんまいに使われた大数珠は、その昔、旅の山伏が荒谷に宿泊した際、お礼に置いていったという話が伝わっており、今は金作さんのお宅に眠っているそうです。

EPISODE 07

宝ノ山卯之松の一生

宝ノ山卯之松(ほうのやま うのまつ)は、江戸時代に実在したという荒谷出身の相撲取り。語り部たちもみんなその名を知っている、いわば荒谷のレジェンドです。南郷歴史民俗の会が平成元年に発行した会報『ふるさと』創刊号によれば、宝ノ山の伝説は次のようなものです。

昔、荒谷に宝ノ山卯之松という相撲の好きな青年がおりました。その頃は秋になると毎年、河原で豊年相撲大会が開かれていたので参加しましたが、まるで歯が立ちません。悔しさのあまり眠れぬ夜を過ごした卯之松は、南部藩一の力士になりたいと虚空蔵菩薩へ100日の願掛けを決意します。

昼は農作業に精を出し、深夜12時になると起き出して渕を越え、山を登ってお参りの日々。誰にも見つからぬよう密かに、毎晩同じ時刻に同じ姿で、雨の日も風の日も参拝しました。そして99日目の夜、試練がやってきます。いつものように渕を越えようとすると空がにわかにかき曇り、雷鳴が轟く大嵐に。さらに真っ黒い牛のような姿をした怪獣が襲いましたが、1時間の死闘の末になんとか倒すことができました。翌日、満願の夜には祈る卯之松の前に白衣の老人が現れ、次のように声をかけました。

「お前は本当に強い力士となった。どこへ行っても負けることはあるまい。しかしもし負けたなら、そのときはお前の命が尽きるときだ」

それからというもの、卯之松こと宝ノ山は負け知らず。八戸はもとより盛岡の土俵でも勝ち続け、仕事でも成功。良いことばかりが続きました。

しかし数年後、盛岡へ巡業でやってきた力士についに敗れます。力士としてピークを過ぎたと感じていた本人が固辞したにも関わらず、周囲が強引に立ち合わせた末のことでした。

その後まもなく、宝ノ山は山中で蛇に噛まれて絶命。その蛇は若き日の宝ノ山に無敵の力を授けたこくぞうさまの化身だったのかもしれません。

今も荒谷の個人宅に、宝ノ山の弟子たちが建立したとされる1メートル弱ほどの供養塔が残っています。

EPISODE 08

キツネとモッコとゲェロとナマズ

新井田川水系の恵みを受けている島守盆地の各集落。荒谷の子どもたちは、ご近所さんである高山地区や門前地区の友だちと川沿いを登下校していました。集落を分けるのは今も使われている馬場橋です。学校帰り、ここまで来たら別れのあいさつは、

「荒谷のキツネ!」
「門前のモッコ!」
「高山ゲェロ!」

『モッコ』は、土砂やたい肥などを運ぶ袋のようなもの。おそらく採石場が近くにあったことから“門前”の言葉の響きにかけて言っていたのでしょう。『ゲェロ』はカエル。つまり子どもたちは、別れ際、あいさつがわりにお互いにからかいあっていたのです。

「門前のモッコはモッコ担いで死んでまれ(死んでしまえ)」
「不習(ならわず)のナマズはヒエ酒飲んでやくたばれ(くたばれ)」

不習地区は不習岳のふもとの丘陵地で、水田が広がる島守にあって畑作が中心の、少し異質な集落。コメが取れないからヒエ酒でも飲んでおけ…と、ここまでくると、けっこう刺激的なごあいさつ! けれども別に集落間の仲が悪いわけではなく、高山から門前・荒谷地区に多くの女性が嫁ぐなど、さかんに交流が行われていました。今回の語り部、そめさんも高山から荒谷へ嫁いだ一人です。

この別れ際の言葉遊び、80年代半ばの重蔵さんから60代後半の金作さんまで全員の共感を呼んだ「あるある」ネタだったので、伝統的な“島守流ジョーク”といえそうです。

荒谷の語り部たち

地域の集会場である荒谷生活館に5人の語り部が集結。 「こくぞうさん」の愛称で広く親しまれる福一満虚空蔵菩薩・龍興山神社に近く、荒谷えんぶりや島守神楽など伝統芸能もさかんな荒谷だけに、しだいに話題はえんぶりにまつわる伝承や、古い風習、不思議な昔話へ。 それはまだ神と仏が分かたれない頃、えんぶり太夫が舞い、南部藩一の相撲取りが投げ、キツネとカエルがいがみあうおかしなものがたり。 堅苦しい検証はこの際置いといて、気楽にお楽しみください。島守盆地を包んできた朝もやのようにミステリアスな荒谷ワンダーランドへ、ようこそ。

  • 松石金作さん(67)

    松石金作さん(67)

    1950年(昭和25年)生まれ。今回のコーディネーター役。荒谷で生まれ育ち、平成11年にそれまで40年以上途絶えていた島守神楽を復活させるなど、地域のキーパーソン。地域の健康づくりを目指す団体「ゆうゆうクラブ荒谷」でも会長を務める。

  • 春日重蔵さん(85)

    春日重蔵さん(85)

    昭和7年生まれ。若き日に地域の古老から荒谷えんぶりと南部手踊りの手ほどきを受け60年あまり。島守では伝統芸能の師匠として知られた存在。

  • 中村隆さん(82)

    中村隆さん(82)

    昭和10年生まれ。荒谷生まれ荒谷育ち、チャキチャキの荒谷っ子。英一さんと同級生。

  • 冷水英一さん(82)

    冷水英一さん(82)

    昭和10年生まれ。荒谷生まれ荒谷育ち、チャキチャキの荒谷っ子。隆さんと同級生。

  • 春日そめさん(80)

    春日そめさん(80)

    昭和12年生まれ。今回の紅一点。隣の高山集落から嫁入りして荒谷の住民となり、はや半世紀以上が経過。

※2016年、2017年の取材時の情報です。

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