南郷アートプロジェクト2019|見つけに行こう、まだ知らない南郷を。

なんごうの物語

鳩田のものがたり

はとだ

大森、鳩田、泉清水、前通りの4つの集落からなる鳩田地区。 大森には競争馬を生産する一山牧場が、泉清水には通称「ジャズ姫」の収穫体験ができるいちご観光農園があり、鳩田農業研修センターでは特産のそばを味わうイベント「ふるさとの味交歓会」が開催され…と、各集落ちょっと個性的。 南郷アートプロジェクトでは2013年、当時の鳩田小学校(2016年3月31日閉校)の子どもたちが出演するダンス映画を制作し、伝統芸能「泉清水えんぶり」を受け継ぐ子どもたちをはじめ、地域の人々の力が結集した作品ができあがりました。

EPISODE 01

サイタ、サイタ

小学校の国語で最初に習ったのは、「サイタ サイタ サクラガ サイタ」。チヨさんの一つ上の学年までは1ページ目に「ハト」、次のページに「マメ」と書かれた教科書だったそうで、“サイタサイタ”か“ハトマメ”かで世代が分かったとか。教科は国語、算術(算数)、修身(道徳)、図画、唱歌(音楽)、書き方(書道)に体操(体育)。ひらがなは2年生で習い、国史(歴史)と地理は高学年になってから。

大人は田や畑の仕事に忙しく、子守りはお姉ちゃん、お兄ちゃんの仕事。11歳のチヨさんも、清一さんをはじめ甥っ子や姪っ子の世話を任されました。実家のある泉清水地区から鳩田小学校、当時は鳩田尋常高等小学校までは3キロほど。坂道の通学路を、毎日赤ちゃんを背負って往復しました。冬、雪が降ると大人が妻籠で踏み固めて道をつけてくれ、その跡をたどって登下校。授業中はあやしながら勉強します。赤ちゃんが泣きだすと授業どころではありませんでしたが、「それでも勉強したいと思って行ったんだもんなぁ」と話す通り、習ったことは今でも忘れていません。純粋な学ぶ喜びが、そこにはありました。

高学年が子守りをする一方、1年生ではまだ乳離れをしていない子もいました。現代のように“断乳”といった考え方がないので、末っ子は特に、子どもが自分から乳離れするまでいつまででも飲ませたようです。休み時間になると母親が学校に来て、廊下で授乳している家庭もあったというから驚きです。

生徒と教師のほかに、親や赤ちゃんまで気軽に出入りする…。小学校は通う子どもだけでなく地域のみんなのものだった、と言えるかもしれません。

EPISODE 02

春夏秋冬たのしい放課後

昭和9年に世増・七枚田・西地区の子どもたちが通う島守小学校の分校が設立され、昭和26年には増田小として独立。同じく中学校は22年に島守中学校増田分教場として開学し、昭和29年に増田中となりました。学校帰り、商店で飴玉を買うのが子どもたちの何よりの楽しみ。1銭出すと、黒砂糖の飴を10個くらい包んでくれたそうです。

その後は、春にはにんじん畑からにんじんを掘り、雪でこすってきれいにしておやつにしました。夏果樹の季節。といっても畑で栽培されたものではなく、子どもたちは山の木の実を取って食べました。桑イチゴ(桑の実)や野イチゴ。甘酸っぱい実を着物のたもといっぱいに入れて持ち帰ろうとし、たもとが真っ赤に染まってしまったのも笑い話です。

実りの秋は家族総出で仕事です。穀物の収穫後は木材で作った柱に横木を渡して「はせ掛け」と呼ばれる棚のようなものを組み、束ねた作物を5段、6段、7段と掛けて天日に干します。夜にこの作業を行うこともあり、そんなときには月の明かりを頼りに、大人に束ねた穀物を手渡すのが子どもの仕事。10歳にもならないうちから農作業をするのが普通だったといいます。

冬であれば「ケツぞり」。ちょっとお行儀の悪い言い方ですが、雪が積もって晴れた日、荷物を放り出してお尻で沢を滑り降りたとか。農作業が一段落するこの時期、大人は藁を使って縄をなったり妻籠や草履、炭すご(炭俵)を編み、収入の足しにしていましたが、子どもたちは比較的自由に遊べるときでもありました。女の子たちは毎日ちゃんと髪を結って学校に行くものの、友だちと「はだきまわっているうちに」(騒ぎまわっているうちに)決まってザンバラに…。けれどそんなことも気にならないほど、夢中になって外遊びをしました。

EPISODE 03

流されて・・・入学式

明治維新から第二次世界大戦までの間、6~13歳の子どもたちは「尋常小学校」に通い、卒業すると「高等小学校」に進みました。しかし戦争に向かう昭和16年には国民学校令の施行により、高等小学校は国民学校高等科に改められます。さらに終戦後の22年には学制改革により、国民学校高等科は新制中学校に改組。

新制中学校が誕生した頃、清一さんは高等科2年でした。現在の中学2年生にあたる年齢です。希望すれば1年間、中学に通うことができたのですが、父親に「そんなところに行くなら家で働け」と反対され断念…。

入学式の当日は祖父と2人、堰を掘るため田んぼにいました。すると通りかかった同級生が清一さんを見つけ、「んがも行かないばわがねぇ」(お前も行かなきゃダメだよ)と声をかけてきます。入学希望を出していないから行けないと断っても、頑として譲りません。ついに「なんたかんたへでぐ!」(なんとしても連れていく!)と袖を引いたものだから、本人いわく「俺はこの通り人がいいから(笑)」と、ついて行くことになりました。一緒にいた祖父は事態を呑み込めず、「行きたければ行け」と気楽に了承。

しかし、入学者名簿には当然、成田清一の名前がありません。会場外でおとなしく待っていようとするのに、なぜか受付係が手招き。中に入るよう促されました。

「なかなか人が集まらなかったから、1人でも多く欲しかったんだべなぁ」…ってそんなのあり!?現代の感覚ではオドロキですが、清一さんはまんまと入学式に飛び入り出席。さらにはそのまま1年間通い、新制中学校卒業の第1期生にまでなったのでした。

EPISODE 04

竹やりと石つぶての夏

南郷に限らず戦前の日本では、天皇陛下の写真や肖像画「御真影(ごしんえい)」が身近なものでした。小学校には御真影を納めるため「奉安殿」が建てられ、南郷でも卒業式や入学式、現在の天皇誕生日にあたる祝日「天長節」には、御真影に八戸地域の銘菓「鶴子まんじゅう」をお供えしたとか。式典には袴をはいて正装で出席するのが決まりでした。

戦時下、労働力不足を補うために行われていたのが、軍需工場や食料作りに学生が駆り出された「学徒勤労動員」。チヨさんたちも「勤労奉仕」と呼びならわし、防空壕堀りの手伝いなどをしたそうです。もとより決して食べ物が豊かな土地とは言えませんでしたが、戦時下はさらに食糧事情が厳しく、わずかな炒り大豆だけを頼りに作業をしました。

終戦を迎える頃、チヨさんは18~19歳の青春真っ只中。八戸の街まで歩き、婦人会の人々に混じって竹やりを練習したことを覚えています。「敵兵が来たら突くように」と教えられていたのです。

「今思うとばかみたいだけれども、その頃はやらなければいけないと思った」

一方、清一さんと与一さんは小学生でした。「その頃は俺も、B-29に石をぶつけて落としてやろうかと考えた。笑い話だな」

笑うことでしか乗り越えられない、厳しい現実がありました。笑い合える今がどれほど幸福かを、鳩田の長老たちは知っています。

EPISODE 05

元祖ビジネスウーマンの子育て哲学

「子どもなんて、かもないで(かまわないで)おがした(育てた)ほうがいい」がチヨさんの子育て哲学。朝起きてから夜寝るまでとにかく働き、子どもの顔を見ることもないまま牧場や畑に出勤する生活でした。「人の3倍働いた」と言うのは、決して大げさではないでしょう。現在60代半ばの長男を筆頭に4人の子どもたちを、競走馬の育成・販売で育てあげたのです。

食事を作る暇もなかったので、子どもたちには小学生の時から1日100円のお小遣いをあげていました。カップラーメンを70円で買い、残ったお金を毎日貯金した次男は、中学生になる頃は20万円も貯めていたそう。日本銀行で発表している企業物価指数をもとに計算してみると、平成28年の物価は昭和40年の約2.0倍。昭和40年の1万円は平成28年の約2.0万円に相当するので、現在の価値にしてなんと40万円も貯金していたことになります。

「子どもらは1円でも親に『くれ』って言ったことはない。1円でも貸しがあれば親にもきっちり請求するしね。しっかりしたもんだ(笑)」

現代なら「放任は子どもの教育上よろしくない」なんて言われてしまいそうですが、子どもたちは立派に自立。細やかに世話は焼かれなかったかもしれませんが、きっと両親が懸命に働く意味は伝わっていたのでしょう。長男、次男は獣医師となり、次男のお嫁さんも獣医師です。

子どもだけでなく孫たちも大人になり、それぞれの道をしっかりと歩んでおり、孫3人は医学部に進学しました。

孫の1人は南郷に移住し、チヨさんが「楽しい」と語る農業の道へと進みました。チヨさんも平成30年には91歳となり、現在も馬5頭と共に365日忙しい毎日です。

EPISODE 06

どぶろくはキケンな香り

現在、日本では自宅でお酒を製造するのは禁止。しかしかつては全国の農村でどぶろくの自家醸造が行われていたといいます。鳩田でもそれは例外ではなく、のどかな昭和の時代、各家庭ごとのどぶろくの味があったとか、ないとか…。

チヨさんが記憶しているのは、税務署による取り締まり。田植えの頃に調査が入ることが多かったようです。「さかかい(酒役人=税務署の係官)が来たず~」と誰かが叫ぶと、さあ大変。田んぼはまるで運動会の様相を呈したそう。

「みんな酒を隠すべ(隠そう)として家さ戻って、だおだお(どんどん)走るんだぁ。それでも捕まって罰金取られるんだけど、な」

「…酒屋がな、自分の店の酒が売れなくなると税務署さ喋る(密告する)って話だったな…」。言っておきますが、これはあくまでもうわさ、それもはるか昔のことです。

女性がお酒を飲むことは少なかった時代ですが、牧場経営者としてバリバリのキャリアウーマンだったチヨさんはお酒を嗜んでおり、人からもらって飲むこともありました。

そんなある夜、知人からもらったどぶろくを飲むと夜中に吐き気やめまいに襲われ、「もう死ぬかと思った」というほどの容態に。発酵を促進するため、天然の麹だけでなく何か添加物が入っていたためだろうとチヨさんは推測していますが、いずれにせよそのときの経験から、一切お酒を口にするのをやめてしまったそうです。

「ごはんがあめれば(腐れば)洗って食って、あめた(腐った)ものばっかり食ってたな。それでも腹痛一つ起こしたことはなかった」と豪語するチヨさんが懲りたぐらいですから、よほどキケンな添加物が入っていたのでしょう…。

EPISODE 07

農耕馬から競争馬へ

火山灰土のやせた土地である南郷に適した作物は、稗、粟、麦、大豆、そば。そばは土地が肥えすぎているとかえって実が入らないため、「そばの味はほめても産地はほめるなってね」と中村さんは言います。特に鳩田地区には川がないため、田んぼができるのはわずかな沢近くの土地だけでした。

主力の畑作農業には、馬の力が欠かせません。昭和40年代に農業用トラクターが普及するまで、馬は移動手段であり、農具であり、そして家族でもありました。馬とともに畑を耕し、収穫した作物の残りを与え、出てきたフンや敷き藁は畑のたい肥として使う。ムダのないサイクルが確立していました。今回最年少、60代半ばの中村さんが子どもの頃でも、鳩田地区では茅葺屋根で馬と一緒に住んでいたといいます。

南部地方(青森県南・岩手県北)の人と馬との関わりは深く、農耕馬としてともに暮らす以外にも、平安時代から全国に向けて名馬を輩出する“馬どころ”として知られていました。江戸時代には盛岡藩・八戸藩の藩営牧場もありました。

ですから昭和30年代、南郷を含む南部地方で競走馬の飼育が盛んになったのも自然なことだったのかもしれません。今は数軒まで減りましたが、15年ほど前まで南郷全体で20軒近くも競走馬の育成牧場がありました。

「馬なんかやってていいこと一つもなかったべ」とチヨさんが言えば、「いいことばり(ばかり)あったべ」と与一さんは懐かしそう。与一さんも5年ほど前まで育成牧場を運営していた1人で、競走馬育成の酸いも甘いも知っています。

EPISODE 08

おんな牧場主チヨさん

ご近所さん同士お喋りする機会はありますかと尋ねると、「ない」と即答。90代に入っても現役、大河ドラマよろしく“おんな城主”ならぬ“おんな牧場主”のチヨさんは、「生き物置いてれば365日暇なし」と笑います。

チヨさんが嫁いだのは終戦直後。当時の一山家は先代が“かまど返し”(事業に失敗)し、「借金だけが財産さ(笑)」という状態だったとか。その頃どこの家でもしていたように農耕馬を1~2頭飼っていましたが、夫が馬喰(ばくろう=馬の仲買人)をしていて可能性を感じたことから、競走馬の飼育に乗り出すことになりました。一山育成牧場の始まりです。

とはいえ農耕馬と競走馬では、かかる資本と手間がまるで違います。たとえば農耕馬は畑で穫れた残り作物をエサにしますが、競走馬は栄養バランスのとれた飼料を買い与えます。春の出産シーズンには徹夜でお産に立ち会うし、家を空けることもままなりません。筋肉を発達させるため運動も重要ですから、広い土地も必要です。

チヨさんと夫が厩舎を建てたのは昭和50年代初め。土地を買い集めて牧場を広げるのに、当時のお金でなんと総額3億円(!)もかかったといいます。しかしその分、大きな利益が見込める事業でもあったということでしょう。

ちなみに2017年度の八戸家畜市場サラブレッド1歳の取引総額は約1億250万円。1頭の最高価格は712万円ほどです。競走馬の競りは4~10月まで全国各地の市場で開催されますが、中でも八戸市場は、北海道外で行われる1歳市場としては最大規模。資本、労働力、国際化など難しい問題はありますが、現代においても、大きなお金が動く市場です。

チヨさんたちも努力の甲斐あって、最盛期にはサラブレッド50頭以上を飼育するまでに事業を拡大。満1歳になると毎年7月に行われる八戸家畜市場の競りに出し、重賞レースで勝利する名馬を輩出したこともありました。

※参考サイト/文献
馬市ドットコム http://umaichi.com/search/hachinohe_sale.html
JBISサーチ http://umaichi.com/search/hachinohe_sale.html
日本銀行 Bank of Japan「教えて!にちぎん」 https://www.boj.or.jp/announcements/education/oshiete/history/j12.htm/
デーリー東北連載「南部 馬と人」(平成26年)
東北地区牧場地図

おんな牧場主と年下の男の子

90歳にして現役で競走馬の育成牧場を経営する一山チヨさんは、いわば鳩田の生き字引き。 そんなチヨさんを囲んで、鳩田生まれ、鳩田育ちの男性3人が集まりました。 60~80代のシニア世代も、チヨさんから見れば年下の“男の子”。 特に甥にあたる清一さんは幼い頃、チヨさんが抱っこして寝ていたとか。 お姉さんと弟たちのような幼なじみの関係は、いくつになっても変わらないようで…。

  • 一山チヨさん(90)

    一山チヨさん(90)

    昭和2年生まれ。生まれも育ちも、嫁ぎ先も鳩田地区(泉清水から大森へ嫁入り)。昭和20年に結婚。稗、粟などの穀物、リンゴ、ナシなどの果樹農家をしながら競走馬の育成牧場を経営。孫の美香さん夫婦が南郷で就農。

  • 成田清一さん(85)

    成田清一さん(85)

    昭和7年生まれ、生まれも育ちも鳩田・泉清水集落。チヨさんの姉の子にあたり、チヨさんの兄の娘といとこ同士で結婚。よって幼い頃、夫婦ともに叔母であるチヨさんには面倒を見てもらっていた。息子とともにリンゴ、桃、サクランボ栽培など主に果樹を栽培。

  • 畑内与一さん(80)

    畑内与一さん(80)

    昭和12年生まれ。鳩田の鶏島(にわとりじま)集落出身、在住。「鶏島」の地名は戦国時代、夜中に鶏が鳴きだしたことで集落の人々が戦火を免れたことが由来とか。田んぼ、長いもなど多品種の畑を奥様と2人でやっている。

  • 岩崎光宏さん(73)

    中村喜夫さん(64)

    今回のコーディネーター。昭和28年生まれ。22~24歳までの2年間アメリカ西海岸で農業研修を受け、帰国後、実家の土地を活用して養豚業を開業。種付け、分娩、育成、出荷まで一貫して生産していたが、10年前に農業に転向。

※2016年、2017年の取材時の情報です。

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