南郷アートプロジェクト2019|見つけに行こう、まだ知らない南郷を。

なんごうの物語

世増のものがたり

よまさり

島守盆地の南端から、新井田川に沿って2キロほどの山間部に、世増地区があります。 南側には畑内地区。あわせて50戸ほどの家に、約200人が暮らしていました。 南郷の他の地区と同様に、葉たばこの栽培など農業をなりわいとし、ヤマメやイワナなど、川魚の恵みもありました。 そして、地域の大きな転換点となったのが、ダムの建設です。 農業者を悩ませてきた新田川の氾濫や水不足を防ぐこと。 加えて人口増に応えるため、水道水を確保する必要にも迫られていた八戸市では、当時の南郷村にダムを建設。 それが世増ダムであり、またの名を「青葉湖」といいます。

参考:
一般財団法人日本ダム協会運営サイト「ダム便覧」http://damnet.or.jp/Dambinran/binran/TopIndex.html
八戸市南郷歴史民俗資料館http://www.hachinohe.ed.jp/haku/nango/
EPISODE 01

「まんまけぇ」まであと何分

80代の3人の娘時代、女性の結婚平均年齢は20歳。ヤスエさん、タカエさん、セツさんの3人も当時の農村の慣習に従い、親の言う相手のもとへ嫁ぎました。いずこの農村も同じでしょうが、やはり世増でも嫁の地位は低く、「馬・べこ(牛)をあずかって(食べさせて)働いてればいいだけ」(ヤスエさん)の存在。朝は3時半に起き、馬車に乗って移動。畑や田んぼの草刈りを終えて帰宅したら、やっと朝ごはんです。夜は晩ごはん後にもそば、稗、豆などを打つ(つぶす)仕事などがありました。

嫁は夫とともに外で農作業、しゅうと・姑は炊事や育児など家の中の仕事をするのが当時は一般的。食事の支度をしない代わり、朝も夜も、しゅうとの「まんまけぇ」(ご飯食べろ)の一声が聞こえるまで家に入ることができませんでした。意地悪なしゅうとであれば、いつまでも声をかけなかった…なんてこともありそうですね。

セツさんのお孫さんは、「おばあちゃんがいつも『朝、けぇ』と言うから」と、セツさんの口癖から取って、生まれたばかりの子猫に“ケイ”と名付けました。今ではすっかり大人の猫になったケイちゃんですが、「ほら、けぇ」(ほら、食べなさい)なんて会話が交わされるたびに、律儀に寄ってくるのだとか。

EPISODE 02

机担いで山の学校へ

昭和9年に世増・七枚田・西地区の子どもたちが通う島守小学校の分校が設立され、昭和26年には増田小として独立。同じく中学校は22年に島守中学校増田分教場として開学し、昭和29年に増田中となりました。

1つの校舎に小学校と中学校が入った増田小中学校は、平成15年に廃校となりましたが、2年後の平成17年、残された木造校舎を使って山の楽校がスタートを切った…というのが、現在までの世増の学校事情。子どもたちは毎日、「山の学校」と呼ばれていた崖の上にある学校を目指して上り、ふもとの家に帰りました。だから、「登校は行き40分、帰り5分」。岩崎さんが増田小中の校長を務めた平成9~11年でもその通学事情は変わらなかったそうですが、昔は草履や下駄をはいての登下校。途中で緒が切れれば、舗装されていないけもの道をはだしで歩くことさえありました。

遡ってタカエさん10代の初め。まだ分教場がなく、島守中へ進学。しかし雪に閉ざされる冬には通学ができなくなるため、冬支度が始まる11月頃になると増田小に机と椅子を生徒が背負って運び、雪解けの3月までそこに先生が通ってくるというスタイルをとっていました。

山の楽校の昇降口前には今も、おなじみ二宮金次郎像があります。薪を背負って歩く道々にさえ学問に励む、苦学と成功の象徴のような金次郎像ですが、かつての世増の子どもたちだって負けてはいません。自分が勉強するための机を担いで学校へ通った人なんて、そうはいませんからね。

EPISODE 03

ヘンゼル、松明をお忘れなく

平成28年、ユネスコ無形文化遺産登録を果たした八戸三社大祭。豪華絢爛な山車が練り歩く青森県南を代表するお祭りは、もちろん80代トリオの少女時代にだってありました。現在は7月31日の前夜祭から始まりますが、昭和30年代は9月1日からの開催。

タカエさんは、歩いて祭りを見に行ったことがあるといいます。八戸へ行くには、頃巻沢地区から現在の国道340号、通称“上り街道(※)”を通るルートが一般的。往復36㎞ほど、6~7時間歩くことになるのですが、この道のりを小学校に上がる頃には歩き通していたというから立派。タカエさんの場合は八戸にいとこの家があり、1泊2日の旅程だったので、つかのま農作業を離れられる小旅行といったところでしょうか。

しかし、泊まるあてがない人が祭り見物に行くには、日帰りしかありません。帰りは必ず夜になるわけなので、松明を用意して出かけたそうです。松明なんて長時間もつものでもありませんから、何本も用意しなければならない。そこで編み出されたのが、朝、八戸に向かうとき、街道の各ポイントに松明をセットしておくという方法。こうしておけば帰り道に松明が切れたときも安心です。ときには別の誰かが「ちょっと拝借」とばかり使うこともあったかもしれませんが…。道に松明を置きながら祭りに向かう人々は、パンくずを目印に森を歩いたヘンゼルとグレーテルにも似ています。

※上り街道:八戸市中心部から南郷地区を通り、岩手県二戸市まで続く街道。江戸時代、八戸藩からの参勤交代に使われていたので、江戸へ向かう道ということで「上り街道」と呼ばれた。

EPISODE 04

漬物名人ヤスエさん

ここでヤスエさんのビール漬けのレシピを少々。いたってシンプルです。

【 材料 】
大根10㎏
ビール大瓶1本
粉からし(辛めがおすすめ)70g
塩300g
酢500㎖
ざらめ糖1袋(1㎏)

【 作り方 】

  1. 大根以外の材料を混ぜる。
  2. 桶に皮をむいた大根の1/3くらいを入れて、①の調味液をかけ回す。
  3. 大根がすべて桶に入るよう②の手順を2~3回繰り返し、残った調味液を上からすべてかける。
  4. しっかりと重しをする。

ポイントは「1回で水がかつがないと(材料が全て調味液に浸らないと)うまくならない。今日漬けたら明日は水がかつぐようにビンッと重しをかける」だそう。水がかついだら重しを重いものから軽い重しにしておき、20日くらいで食べられます。

「この人のビール漬けを食べたら、よそのはちょっと食えないよ」と岩崎元楽校長が言えば、「おらも聞いてやってみたけど、いったい(決して)同じ味にならないよ」とタカエさんが首をひねる。ヤスエさんは、世増が誇る漬物名人です。大根が穫れる11月頃に漬け、5月頃まで食べられるとか。長期保存も魅力のビール漬け、家族や知り合いにあげるために作っているもので、非売品というのがなんとも残念!

EPISODE 05

世増名物一子相

世増の名産、それは手作りの籠(方言で『かっこべ』)や箕(み)。箕は大きなちりとりのような形をした農具で、豆や雑穀などをこの中に入れて振ると、ゴミや発育不良の実をより分け、取り除くことができます。

世増の男たちは春・夏のうちにイタヤカエデの木を集め、農閑期の冬場に製作。籠作りに適した節のない枝は木1本につき1枝程度と希少だし、切り出した枝を細長く割って乾燥させ…と、編むまでの準備も大変です。良い木を求め、泊りがけで三陸海岸沿いの山に行くこともあったとか。自然と男衆の仕事になったのは、岩崎さんいわく「女の人は朝早くから晩げ(夜)まで稼いでるから、こったらの(こんなの)作ってるヒマないじゃん(笑)」。冬場の男衆の余裕が生んだ名産品です。

完成した籠・箕は一週間から10日ほどもかけて近隣町村で売り歩きました。青森県南から岩手県北にかけて、どこの集落でも世増で作られた箕を使っていたそうです。

一方、お隣の畑内では炭焼きがさかん。共倒れにならないよう隣り合う2つの集落で協定を結び、世増は籠・箕、畑内は炭と、産業の住み分けをしていました。

そしてこの籠作りは“一子相伝”です。編み方は家ごと、人ごとに違い、一目見れば誰の作品か分かるほど。その特別な技術が盗まれるのを防ぐため、各家の長男にしか編み方が伝えられませんでした。そのため、現在では作れる人がほとんどいません。

「惜しい技、消えゆく文化がいっぱい。もったいなくて、もったいなくて」 岩崎さんが山の楽校を運営していた背景には、先人の知恵や技術を残していきたいという思いもありました。

EPISODE 06

川の暮らした日々遠く

現在の世増ダム周辺地域には世増、畑内、水吉(岩手県軽米町)の各集落に通じる3本の橋があったものの、頻繁に川が氾濫し、何度も架け替えなければならなかったとか。80代3人娘が子どもの頃、台風シーズンは学校に行っていてもヒヤヒヤ。橋が流れるのではと勉強どころではなかったといいます。ひと雨降ると田んぼも水位が上がるので、膝まで水に浸かり、足を取られそうになりながら稲刈りをしたことも。命は大事、でも、作物も大事。危険をおしてギリギリの作業が続けられました。

水害や水不足を防ぎ、八戸市をはじめとした周辺町村の生活用水を確保するため、ダム建設の話が出たのは昭和30年代後半。調査が始まったのは昭和51年のことです。建設によって世増、畑内、水吉のあわせて71軒が水没することになり、昭和の終わりから平成2年にかけて住民が高台に移転。タカエさん、ヤスエさんも、平成2年に揃って転居しました。集落の中にはそのまま八戸市内や南郷の他の地区などに引っ越してしまった人もいて、残ったのは23~24軒ぐらいだとか。

ダムができて水害の心配がなくなったから良かったですね、と話しかけると、「良かった、と思わねばないな(思わなければいけないな)…」 ほろ苦い笑顔を見合わせるタカエさんとヤスエさん。複雑な気持ちがにじみます。水底に沈んだふるさと、そこにあった暮らしは今、山の楽校内の展示によってうかがい知ることができます。

EPISODE 07

沢は水族館

川は災害を引き起こす荒々しさを持つ反面、恵みをもたらす存在でもありました。世増では、魚=川魚=魚種はなんでも“じゃっこ”。水がきれいな新井田川ではヤマメやイワナ、ウグイにコイなどが獲れ、いろりの上で焼き干しして保存食にしていました。じゃっこの中でも冬に獲れる魚は「寒じゃっこ」と呼ばれ、土地の人々の季節のごちそう。寒じゃっこは別名「スガじゃっこ」とも。「スガ」は南部弁で氷のことです。沢に厚く張った氷を割りその下にいる魚を釣るので、こう呼ばれたのです。

じゃっこを釣り、内臓を取り除き、手作りの竹串に刺して囲炉裏端に並べ、焼きたてをがぶり!が一番おいしいけれど、焼き干し用は囲炉裏の上に吊るした藁に刺す。こうしておけば、囲炉裏で火をたいているだけで自然にいぶされます。低温でじっくり乾燥させることで、生臭さは消え、じゃっこは香ばしい香りをまといます。焼き干しした寒じゃっこ・スガじゃっこは、ごぼう、にんじん、豆腐を入れアツアツの汁仕立てにするのがポピュラー。「ほぐして味噌で和えてもおいしいよ」と、岩崎さんが実際の焼き干しじゃっこを見せてくれました。3~5年は保存できるというから驚きです。この焼き干し、「めごく(きれいに)やるにはコツがある」とヤスエさん。釣具や竹串作り、魚の調理はその家の男性の仕事でした。

ダムができる前は「秋口にポットを洗いに沢に降りて、2~3匹手づかみで(じゃっこを)取ったことがあるよ」とタカエさん。沢はさながら水族館。何の用意もなく行っても手づかみで釣れるほど水は澄み渡り、たくさんの川魚がいたのでしょう。ダム建設以降、近所の沢で魚の姿を見ることはなくなったといいます。川に残飯が入らなくなったからではないかと、タカエさんは推理しています。川に残飯を流すなんて今ではマナー違反ですが、昔の食事は素朴なものばかりでしたから、魚のほどよい栄養になっていたのかもしれません。

EPISODE 08

たばこの香りと50年

犾舘セツさんの家は50年以上続くたばこ農家。世増地区を尋ねた9月初旬は収穫が終わり、乾燥作業も終盤を迎えていました。煙になる前のたばこは、植物の生命力を感じさせるフレッシュな香り。畑に近づくだけでふんわりと漂ってきます。

たばこは春に苗を畑に移植すると、1本の木に25~26枚の葉っぱがつきます。収穫は夏、下から上へ向かって7~8回に分けて葉を摘みます。次は、ビニルハウスの中で葉をより合わせ、編みあげる工程。ミシンに似た機械から糸が出て、ガッチャン、ガッチャンという音をたてて編んでいきます。たばこの成分で手が真っ黒になるため、収穫など作業は必ず手袋をはめて。編みあがった葉は小屋に吊るして自然乾燥させ、カビが発生しないよう慎重に管理します。乾燥作業中は葉に白い部分がなくなるまで、毎日経過を観察するのがコツ。白い部分があるのは、水分が残っている証拠だからです。

「乾燥が進むほどいい香りがするようになる」と、先代から数えて50年以上たばこ栽培を家業としている犾舘さんは、目を細めます。

出荷は12月。2~30キロずつ専用袋に詰めて、盛岡のリーフセンターに運びます。小屋一面に乾燥させても、30キロ袋せいぜい2~3つ分。犾舘家では夏から秋にかけて収穫・乾燥を繰り返し、毎年160袋程度を出荷していますが、これは地域のたばこ農家の中では“中の上”くらいの規模だといいます。

「手間がかかるし重労働だからね、やめていく農家も多いよ」と犾舘さん。たばこ価格の上昇や禁煙の機運の高まりなど、たばこ産業を取り巻く状況は複雑になってきています。しかし世増の人々にとってたばこは、半世紀にわたって暮らしを支えてくれた大切な産業、大切な畑なのです。

世増80代3人娘

山の楽校に集まったのは、世増・畑内で育ったタカエさん・ヤスエさんと、少し離れた不習(ならわず)地区からお嫁にきたセツさんの、80代3人娘。 ダム建設でもともとあった集落が水の底に沈み、それを機にふるさとを離れる人も少なくはなかったけれど、3人はこの地に根を張り、たばこ栽培などをして暮らしてきました。 ダムは平成16年完成。平清盛の息子・重盛が対立する父から逃れてこの地にたどり着き、そのとき手にしていたのが「青葉の笛」――という平家の落人伝説から「青葉湖」の愛称もつきました。 現在、四季の風景が楽しめるドライブスポットや、ウォークラリーの開催地として市民に親しまれている青葉湖を、3人娘はどんな目で見つめるのでしょうか。

  • 世増タカエさん(85)

    世増タカエさん(85)

    昭和7年生まれ。世増本家に生まれ、長女だったために婿をとった生粋の“世増っ子”。今回の最年長。世増ダム建設にともない、平成2年に山裾の旧世増集落から移転。

  • 世増ヤスエさん(80)

    世増ヤスエさん(80)

    昭和12年生まれ。世増のお隣、畑内地区の出身で、世増家の分家にお嫁にきた。世増ダム建設にともない、平成2年に山裾の旧世増集落から移転。漬物名人としてご近所に名をはせる。

  • 犾舘セツさん(82)

    犾舘セツさん(82)

    昭和10年生まれ。不習(ならわず)地区出身、七枚田(しちまいだ)地区在住。3人の中で唯一、現在もたばこ農家を続けている。

  • 岩崎光宏さん(73)

    岩崎光宏さん(73)

    昭和19年生まれ。38年間の中学教師生活の中で、増田小中学校の校長も務めていたことから、平成17年に青葉湖展望交流施設・山の楽校(がっこう)の“楽校長”に就任。29年3月、13年間の楽校長生活にピリオドを打ち相談役に。在職中は、今では山の楽校名物となったヒマワリ畑を始めるなど活躍。

※2016年、2017年の取材時の情報です。

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