南郷アートプロジェクト2019|見つけに行こう、まだ知らない南郷を。

なんごうの物語

クジラの村のものがたり

くじらのむら

かつて、「クジラの村」と呼ばれた旧南郷村。村の多くの若者たちが、南極大陸を囲む南氷洋での捕鯨に従事し始めたのは、日本の漁業が沖合から遠洋へと進出していった昭和12年のことでした。初めは7人だったものが、そのまじめな働きぶりが雇用主の信頼を得て規模が拡大。戦後のピーク時には、三八地区一帯で七百数十人が遠洋漁業へ繰り出し、彼らが村に持ち帰った収入は5億円ともいわれます。南郷市野沢にある『大洋公園』は当時、日本三大捕鯨会社の1つといわれた大洋漁業(現・マルハニチロ)に所属して捕鯨の出稼ぎをした人々によって、昭和34年に造られました。

EPISODE 01

おじさん、南氷洋に行く

昭和20~30年代前半にかけては戦後捕鯨の黄金時代。南郷だけで年間300人が大洋漁業船団に勤め、当時、大洋と並び三大捕鯨会社といわれた「日水」「極洋」などでも数十人が働いていました。漁の目的は鯨油(げいゆ)と鯨肉(げいにく)で、鯨油はマーガリンや石鹸に、鯨肉は食料になりました。古くから鯨肉を食べてきた日本ですが、戦後は食糧事情の悪さもあってますます人気が高まっていたのです。

大洋漁業の捕鯨船団は母船を中心に、捕鯨砲で鯨を捕らえる捕鯨船(キャッチャー・ボート)、漁場を探す探鯨船、獲った鯨を母船に届ける曳鯨船、冷凍船、冷蔵運搬船、燃料・物資補給のタンカーという編成。総トン数5万5,000トン以上、働く人は総員約1,500人程度。1つの町ほどの規模でした。

捕鯨が最盛期を迎える1~2月、南氷洋の季節は夏。

「海面に張った氷が溶けてオキアミが出てくる時期だから、鯨が食べにくる。そこをキャッチャー・ボートで獲るんだ」(石屋さん)

2月下旬まで太陽が沈まない白夜が続き、その間は昼夜の別なく漁をします。南氷洋では世界中の捕鯨国が船団を組んで操業し、3ヶ月という限られた日数の中で成果を競いました。海洋資源保護のため、漁の解禁日・捕獲制限頭数は毎年、各国代表が話し合いで決定。鯨にはナガス鯨、ザトウ鯨、イワシ鯨などの種類があり、大きさも種によって異なるため、制限頭数は最も大きいシロナガス鯨に換算してカウントする仕組みでした。(参考:『南氷洋のおじさんたち』/日本水産経済新聞社刊)

EPISODE 02

タフガイでなければ

南郷では昭和12年、中山辰(たつ)さんはじめ7人の若者が初めて南氷洋捕鯨へ出航。まじめな働きぶりが認められ、捕鯨出稼ぎ者は回を重ねるごとに増えていきました。まとめ役となった中山さんは採用面接に立ち会い、自ら人柄を見極めてから合否を判定したとか。採用条件は、身元がしっかりしていて、心身ともに健康、丈夫なこと。

高収入な仕事として人気の捕鯨船でしたが、その内容はハード。11月~4月の約6ヶ月にわたり家族と離れ、全国各地から集まった乗組員と船上で共同生活を送りながらの力仕事です。1日24時間を3交替で働き、1日平均12時間勤務。実質2日間で24時間働くことになり、今なら立派な“ブラックバイト”扱い?

そして、現場は常に危険と隣り合わせです。事故で死者が出るケースが実際にありました。遠洋漁業には経典や袈裟が積みこまれ、これらを使って乗組員たちがお葬式を執り行います。遺体が保存できないため、亡くなった人は棺を沈めて葬る水葬に付されました。今回話を伺った3人にも海で仲間を亡くした経験があります。

昭和30年、捕鯨従事者の家族向けに発行された『南氷洋のおじさんたち』(日本水産経済新聞社刊)には、戦後9回目となる昭和29~30年操業時の日新丸(大洋漁業母船)乗組員の出身地別人数が記録されています。それによれば380人中、八戸出身者は56人でトップ。以下、秋田54人、宮城県鮎川34人、弘前24人…と続きます。

『宮城県鮎川や秋田、青森の出身者が多いのは昔からの伝統で一般に東北地方が多いのは長い期間厳しい労働にたえるものが多いということでしょう。この地方からは何も捕鯨団に限らず、北洋のサケ・マス船団や南方マグロ船団にも沢山乗っています』(『南氷洋のおじさんたち』より) 南郷の男たちは心も体もタフガイ揃いだったのですね。

EPISODE 03

3回乗れば家が建つ

「南氷洋に1回行ってくれば、会社は新しい船1隻ずつ作ったもんだ」とは、石屋さんの話。南氷洋捕鯨がいかに好景気だったかが分かります。その恩恵はもちろん乗組員にもありました。3シーズン乗れば“クジラ御殿”が建つといわれ、実際に家を建てた人もたくさんいたのです。3航海分のお給料は「村長よりも高かった」(石屋さん)!?

昭和33年、南郷村郵便局の月給約7,000円に対し、漁船乗組員は倍の14,000円。基本給に加え水揚げ量に応じた配当金、航海範囲・期間に応じた航海手当もあったからです。高畑さんの製材、石屋さんの鍛冶のように、特殊技能を持つ人は、配当金が一般作業員の約1.5倍。南氷洋捕鯨を終えると5月頃から北洋のサケ・マス漁、真夏には南洋のマグロ漁と、年3航海をこなす猛者も現れて村全体をも潤しました。

長い航海の間、家で待つ家族の生活を支えたのは「宅送金」です。給料の一部が定期的に送られるもので、宅送金が入る日、農協や郵便局の前には、遠洋漁業者の妻たちが長蛇の列をつくりました。

遠洋に出た男たちが村に持ち帰った収入は、5億円とも。捕鯨は小さな村に富と活気をもたらしたのです。山に囲まれた南郷は商工業に乏しかった上、戦後の産業停滞もその傾向に拍車をかけ、若者は遠洋漁業に活路を見出すしかなかったという事情もありました。

しかし高畑さんは先輩によく言われたそうです。「いくら稼ぎがよくても、船の上は生活するところじゃない。人間の生活というのは、陸(おか)にあるものなんだ」その言葉を胸に刻んだ高畑さんは、捕鯨船で稼いだお金を元手に友人と事業を興し、30代半ばで船を降りています。

EPISODE 04

笑顔で行ってらっしゃい

昭和32年に中沢村と島守村が合併し、南郷村が誕生。捕鯨やマグロなど、遠洋漁業へ向かう出稼ぎ者の見送りは、村長のスピーチに始まり、青年団が結成した楽隊の演奏も入る盛大なもの。毎回、村中の人々が総出で行われました。

クライマックスは連絡船さながら、八戸駅に向かうバスの車窓からの“紙テープ投げ”。ただし、「テープを引っ張るのは、やっぱり船でないと味が出ないもんな。バスは早がべ(早いだろう)?だからテープがすぐ切れてしまうんだ(笑)」(石屋さん)とか。ふつうの乗合バスで出発することが多く、そんな時には運転手さんも気を利かせてゆっくり走ってくれたそうですが、それでも船のようにドラマチックにはいかなかったようです。

村を出発したバスは八戸駅まで行き、一行は列車に乗り換えて、横須賀や晴海ふ頭へ。冷凍船でも6,000~7,000トン、母船になると20,000トン級にもなるので、入出港できる港は限られていました。

「船に乗って別れるときは、お互いに絶対にイヤな顔したらダメな」と、出発の心得を話してくれたのは高畑さん。

「その前にどんなことがあったとしても、一番記憶に残るのは見送りのときの顔なんだもの。奥さんはたとえ本当は嫌な気持ちでもニコッと笑って『元気に帰ってきてよ』ぐらい言って送りださないばならない」

家族の笑顔を支えに、男たちは厳しい仕事へと向かいました。

EPISODE 05

深鯨から加工まで

捕鯨船(キャッチャー・ボート)の舳先に装備された捕鯨砲から火薬の力で発射される銛は、鯨に当たると衝撃のあまり曲がります。石屋さんは捕鯨船団の鍛冶屋さん。銛の修理をはじめ、船団のさまざまな金属製品を修理、加工するのが仕事でした。

実際に当時使われた捕鯨砲を見てみると、小型の大砲といった様子。“銛”というと鋭く尖ったものを想像しますが、先端は直径10㎝程度の円筒状です。これには理由があり、「尖ってると、刺さるときに曲がるから」。

捕鯨の手順はこうです。

まず綿密な調査をもとに探鯨船が船団を漁場へ導き、その後キャッチャー・ボートが漁に入ります。ターゲットを見つけると船は全速力前進で追尾。人間と鯨との根比べが始まります。

追尾はチームワークが大事。捕鯨砲を打ち込む砲手以外はサポートに回ります。狙うは背中から腰にかけて。斜め後ろから近づき、カタカナの『イ』の字の角度で狙います。射程距離は30~50m。このとき銛の先が尖っていると摩擦が少なすぎ、海面や鯨の身体の上で滑って狙いがずれる場合がある。そこであえて先端を丸くし、当たりやすくします。根元には釣針でいう「返し」にあたる鉤が付き、命中すると鉤が押し出されて簡単に外れないようになっています。

捕獲後は鯨を母船まで引いていき、甲板で解剖・処理。甲板がいっぱいの場合は船尾に係留します。解剖用ワイヤーが縦横に張られた甲板の上で、夜を徹して交替で処理。肉は冷凍や塩蔵処理をほどこして冷蔵庫で保存し、皮や骨は鯨油の原料に。巨大な身体は余すところなく使われました。

捕鯨に使われた銛の実物は、「道の駅なんごう」で見ることができます。

EPISODE 06

楽しい赤道祭り

南氷洋捕鯨船団最大のイベント「赤道祭」。その名の通り、赤道を通過するときに開催します。まず着飾った“海の神”(に扮した乗組員)が船長に赤道通過を許可する鍵を、船団長には大漁を約束する銛を授ける儀式を行います。メイン会場の母船は長さ100m以上、幅25m以上と巨大。儀式のほか運動会、野球・相撲大会、仮装行列や演芸会、映画鑑賞会などを開くことができました。

祭りに必要な道具はほとんど乗組員の手作りです。キャンバスを丸く切り抜き砂を入れて縫ったボールに、ノコギリ挽きした資材に大工がカンナがけして丸く仕上げたバット、ペンキで彩色した化粧まわしなど、本物さながらの力作が揃いました。

「資材のバットは本物より柔らかくて、すぐ折れる。みんなが騒いでいるとき、俺たちはバット作りで忙しくて!」と製材を担当していた高畑さん。

話し合いでオリジナルのルールも決めます。野球では天井にシートを張って、シートの継ぎ目を越えてボールが海に入ったらホームラン、などなど。

出身地別・役職別のチーム対抗で競う熱戦は、スカウト合戦も熾烈。野球は岩手県勢が、相撲は青森県と秋田県出身者が強かったそうです。キャリアの長い乗組員は試合巧者。相撲では波の揺れを利用し、小さな力で上手に投げることができたので、番付が上だったそう。力では若者が有利ですが、海上では経験がものを言ったようです。

赤道祭で優秀な成績を収めたり特技を認められた人は上司の覚えもめでたく、出世につながることもあったとか。祭りは大漁・安全祈願や息抜きの意味もありますが、乗組員どうしが打ち解け、団結力を強めるきっかけとしても機能しました。

EPISODE 07

憧れのジョニ黒

ジョニーウォーカーブラックラベル、通称「ジョニ黒」。今は大衆ウイスキーですが昭和30年代は、漁船の出稼ぎを引退後、郵便局員となっていた古舘さんの月給7,000円に対し、1本8,000円。空き瓶さえ2,000~3,000円で取り引きされたそう。

そんな高級品も遠洋漁業船では海外で安く買えたので、南郷の男たちもこぞって持ち帰りました。国内持ち込みは1回2本まで。しかし男たちは税関の目を逃れるため、あの手この手です。岸壁で荷役(船荷のあげおろし)をしているとき、モッコ(積み下ろしに使う網)の中に紛れさせて隠す。いったん封を切れば“飲み残し”扱いで制限本数にカウントされないのを利用して2本だけ残し、残りのボトルはすべて蓋を開けて持ち込む…。3人も持ち帰りこっそり飲むつもりが、「親父に全部飲まれた(涙)」(古舘さん)、「うちは娘が(笑)」(石屋さん)と苦笑い。高畑さんだけは当時の超ビンテージものが自宅にあるそうで、それを聞くや「死ぬ前に一緒に飲むべし!」と、誓い合ったおじさんたちです。

ほかにもマグロ漁船では一斗缶にマグロを詰めたものを家族に持ち帰ったり、捕鯨船では会社側が持ち帰り用の鯨肉を用意したので、塩漬けをカマス(藁袋)に入れてお土産にしました。

器用な人は象牙より固いマッコウクジラの歯や骨をグラインダーやノコギリ、ヤスリで加工し、南氷洋で見かけたペンギンの彫刻や印鑑、刀やステッキなどを作ってお土産に。高畑さん作のパイプは、島守にある「山の楽校」に収められています。

一方、マグロ独航船の乗組員には宝石商から現金を預かり、海外で安く宝石を買いつけてこっそりと秘密のお土産にする者も。手指に宝石を挟んだり、靴下の中に隠したり、中には飲みこんで身体検査をパスした人もいたとか…。

EPISODE 08

漁船のグルメ

船上生活の一番のお楽しみは、おいしいごはん。きつい労働と長い航海のストレスを癒すのに、食事は大切でした。船には本格的な厨房設備が整い、専属の料理人もスタンバイ。お正月にはお餅やタイのお頭つきが出るなど、陸にいるのと同じか、さらに豪華なくらいだったとか。

そして捕鯨船では鯨肉が、マグロ船ではマグロが食べ放題! 山間出身の南郷の男たち、新鮮な魚介はさぞ嬉しいものかと思いきや…。

「1週間も連続して食べると、もう見たくない(笑)。だから同じマグロでもスキヤキにしたりさ。色々と手を替え、品を替えてなんとか食べる」と古舘さん。

捕鯨船が南氷洋なのに対し、マグロ漁船は南太平洋が漁場。フィジー共和国に寄港したときには当時、南郷では珍しかったバナナを買ってデザートにしていました。1ポンドでバナナを1茎分(10~15房)買えたので、青いまま買って部屋にぶら下げ、熟すのを待ちます。いざ熟してみんなで食べ始めると「最初はいいけど、途中でボロボロ落ちてくるんだよね。一気に熟すから食い間に合わない」と結局、こちらも食べきれなかったようですが。

一方、鯨肉が「一番うまいのは腐る寸前だね」と、うっとりと言いきるのは捕鯨船経験豊富な高畑さん&石屋さん。熟成したものを切ると、内側は美しい桜色。柔らかな食感が後を引き、いくらでも食べられたと目を細めます。中でも希少な部位が「尾羽(おば)」肉。尾に近い部分の背肉で脂肪と筋肉のバランスがよく、霜降りでトロリととろけるような食感。加工時も他の部位と分けて保管され、首都圏の高級料理店に卸されるので、庶民の口にはまず入らない・・・とか。そんな尾羽肉が食べられるのも、捕鯨船員ならではのことでした。

EPISODE 09

かかぁでないば治せない

「5ヶ月も6ヶ月も船に乗ってて、女の人が誰もいないところにいるでしょう。帰ってきて出迎えの人を見ると、そりゃあきれいに見えるんだ。ばぁさまでもな(笑)」と高畑さん。

『港々に女あり』は古い映画のタイトルですが、海の男の恋は“肉食系”? 中締め船(航海の途中で資材を追加する船)が運んでくる手紙を、乗組員は楽しみにしていました。返事は手紙1通につき便箋5枚までという規則。

「一番面白いのが、ラブレターを書いて交換することだな」懐かしそうに石屋さんは言います。独身時代、気になる女性から届く手紙を開封するのは、心ときめく瞬間。

「手紙書いてよ、便箋さ口紅つけてくるのがいるんだ。でも、そういうの見たことない人は、自分のかかぁにも『キスマークついた便箋買え』って言うんだ。奥様んど(奥さまたち)はそういう出来合いの商品を売ってる店があるかと見て歩くけども、ないわけだ。自分でつけるしかないんだけどね(笑)」 独身乗組員たちの中には寄港地でのロマンスの末、そのまま住みつく人もいました。

しかし甘いときめきがある一方で、長い航海の間には、心身の調子を崩す人も出てきます。家族と離れナーバスになっているところを悪い仲間がからかって、ノイローゼに罹る例もあったとか。母船にはドクターが乗りくみ治療しますが、完治は難しかったそうです。

ところが。「船が戻って、家族が迎えに来てるべ? それを見た途端ケロッと治るんだものな。やっぱりノイローゼっていうのは、家族のことを考えてなる。かかぁでないば治せない」(高畑さん)。

家族のぬくもりが、一番の特効薬なのでした。

大海原を駆け抜けたおじさんたち

日本から7,000マイル(約11,265km)。北半球から赤道の島々を経てオーストラリア、ニュージーランドを越え、南緯70度まで行くと南極大陸があります。大陸を取り巻く海が捕鯨の舞台「南氷洋」(なんぴょうよう)。昭和30年代当時、最新型の船なら20日程度で到着したそうです。南郷公民館に集まったのは、昭和30年代に遠洋漁業の出稼ぎを経験した3人です。「あと10年早かったら先輩たちもいっぱいいたのに!」と悔しがりながら、当時の写真を前にすると大盛り上がり。全員が“おじいさん”というよりお茶目な“おじさん”と呼びたい方々なのでした。(参考:『南氷洋のおじさんたち』/日本水産経済新聞社刊)

  • 高畑幸一さん(86)

    高畑幸一さん(86)

    昭和6年生まれ。島守十文字地区出身・在住。今回の最年長。20代前半から捕鯨に従事。東京オリンピックの翌年、昭和40年の操業を最後に船を降り、30代にして本業の製材で起業。

  • 石屋正美さん(81)

    石屋正美さん(81)

    昭和11年生まれ。中野・下洗(しもあらい)地区出身・在住。鍛冶屋の特殊技能を武器に18歳から捕鯨船に乗り、54歳で引退するまでにマグロ船などさまざまな漁業を数多く経験。

  • 古舘良策さん(77)

    古舘良策さん(77)

    昭和15年生まれ。市野沢・黒坂地区出身・在住。捕鯨船乗り組み経験はないが、19歳でマグロ母船に乗り組み、船上で20歳のバースデーを迎えた思い出あり。その後、郵便局員に転身。

※2016年、2017年の取材時の情報です。

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