南郷アートプロジェクト2019|見つけに行こう、まだ知らない南郷を。

なんごうの物語

頃巻沢のものがたり

ころまきざわ

そのまま読めば「ころまきざわ」、南郷の人々は「ころまきじゃー」と呼びならわしています。急な斜面に畑が、山間を縫うように田んぼが伸びる山中の集落。75年の歴史を持つリンゴ栽培をはじめ、ブルーベリー、さくらんぼ、桃など果樹栽培が盛んです。「頃巻沢のリンゴはおいしい!」というのは、他集落の人々も認めるところ。斜面の畑は日当たりがよいからとか、山は寒暖差が大きいから果実栽培に向いているとか、さまざまな理由が考えられますが、おいしさの一番の理由は「愛情があるからよ」と、頃巻沢りんご生産組合長の吉雄さんがちょっと照れながら言いました。

EPISODE 01

りんごの値段、高いか安いか?

リンゴ農家は1年中、作業が途切れることがありません。始まりは1~3月の厳冬期、剪定から。形、色、味のいいリンゴを作るには、木の中まで日光が届くよう枝を払い、育成環境を整えることが重要。長年の経験と技術が物を言う剪定は難しくも大切な仕事です。

4月、花が咲くと始まるのが余分な花を間引く「摘花(てきか)」と薬剤散布・通称「薬かけ」。4月ごろと6月ごろに肥料を与えつつ、5月に受粉作業。虫の発生を防ぎリンゴの木にじゅうぶん水分が行き渡るよう、伸びすぎた下草の刈り取りも春から秋まで年4~6回程度行います。

6~7月ごろになると青い実が出来てくるので、1つ1つの実を大きく育てるため間引き。これを「摘果(てきか)」といいます。実全体に日光が当たり、色づきがよくなるよう1枚1枚葉を摘む「葉つみ」、まんべんなく色づくよう実を回転させて日に当てる「玉まわし」は夏~秋にかけての仕事。余分な枝が伸びればまた枝を払います。

時は変わって平成の現代。泥障作れでぃーすは今日も井戸端会議。「山街道で赤ん坊が生まれてしまって…」淡々と話すシズエさんに、ミヤさんがぴしゃりとひとこと言いました。

こうして収穫を迎える10~11月頃、実るリンゴの数は、開花した花の25~30%にまで絞られています。はしごに上って1つ1つ収穫、実をランク別に分ける「選果」と箱詰めを経て、いよいよ農協・産直・市場などに納品。

弥千代さんから1年間の仕事を聞いた後では、青果売り場に並ぶリンゴを見る目も変わります。見目麗しく、歯ごたえよく、初恋のように爽やかに甘酸っぱい。リンゴ1個100円。さて、高いでしょうか、安いでしょうか?

EPISODE 02

大忙しの農休日

昭和10年代、弥千代さんの祖父などが中心となり、生産組合を作り始まった頃巻沢のリンゴ栽培。東京オリンピックが開かれた前後の昭和30~40年代には「農休日(のうきゅうび)」という制度が生まれました。自然相手の農業には日曜日も祝日もない。そこで毎月15日、集落のリンゴ農家が一斉に休む日を設けようというものでした。

しかしこの農休日、ほんの5~6年で名ばかりのものに。理由は農家の兼業化が進んだからです。

その頃は日雇い労働との兼業が中心。作物を育て、市場に売るまで何カ月もかかる農業と違い、日雇いは月末には報酬が支払われます。労働日数を重ねるほど給料が上がる仕組みなので男性たちは我先にと働きに出、その間農作業ができなかった分を、農休日を使って取り戻そうとするようになったのです。

こうして農休日は形骸化、時を同じくして作業の機械化も進みました。

兼業で農作業にかけられる日数が減った分、早く作業を進めなければなりません。そこで多くの農家が農業機械を導入しました。高価な農業機械を買うにはお金が必要です。早く確実に現金収入を得るには、農業以外の仕事をメインにするしかなかったのです。

各農家で機械を持つようになると、親戚・近所どうしが集まり共同で農作業を進める共同体「結(ゆい)っこ」も解散。高度経済成長期の真っ只中、都会が活気にあふれる陰で、農村にはなんだか寂しい時代の波が押し寄せていたのでした。

EPISODE 03

子どもの仕事

農家は暇なし。休むのはごはんを食べるときだけで、夜明けとともに起き出して働き、暗くなれば疲れてひたすら眠る。30~40年前までそんな生活が当たり前でした。

斜面が多く平地が少ない頃巻沢。田んぼを持っているのは一部の比較的裕福な農家だけで、畑の耕作が中心でした。リンゴをはじめ麦、ヒエ、豆、葉タバコなど、さまざまな種類を作っては出荷します。たとえば収穫3週間前から麦畑に豆をまき、麦を刈った後に豆がとれるように準備するなど、少しでも収益を上げるため、限られた畑をやりくりしていました。

仕事はいくらでもあり、子どもたちも立派な働き手です。64歳の吉雄さんは少年時代、朝一番の草刈りを担当。農家では必ず牛か馬を1頭は飼っていたので、その家畜の1日のエサを用意してから、他の仕事に取りかかるのです。今回集まったメンバーは40代~80代ですが、全員が幼い頃から家業を担ってきた筋金入りの農家。一番若い弥千代さんの小学校時代でさえ、学校の勉強より家の仕事が優先だったといいます。

「若者の農家離れが進んだのは、子どもの頃から暇なしに手伝わされて、大変さが身にしみてるっていうのもあるんじゃないかな」と弥千代さんは苦笑。けれど「他に遊ぶものもなかったから、しかたなしに手伝ったけどな。今みたいに遊ぶのがいっぱいあったら誰もやらないべな」と当時を振り返る吉雄さんは楽しそう。「遊ぶのがあったって、金がないしな」と護さんが返すと「たしかに!」と笑顔で頷きます。お天道さまと働くことの喜びは、少年時代から変わらないようです。

EPISODE 04

少年が見た花火

第二次大戦が終戦を迎えた昭和20年のことを、喜栄さんは鮮明に覚えています。中学1年生の夏でした。7月4・15日と8月9・10日。八戸が2度にわたり空襲を受けた日も忘れたことはありません。

「山さ行って木に登って、高いとこから八戸を見たんだ。八戸セメントだか、あの辺に爆弾が落ちるんだら(落ちると)、セメントの粉がバーッと舞って。子どもだもの、それを喜んで見てたのさ。日東化学が真っ赤に燃えてたな」

軍需工場に指定されていた日東化学工業、日本砂鉄やセメント工場などが爆撃の標的となったのです。八戸は陸軍が飛行場を置き、沿岸には海軍を配備。当時、軍事的に重要視された地域の1つでした。敵軍本土上陸地点の1つと目されていたので、人々は防空壕を掘って備えました。頃巻沢では戦車がきつい斜面を登れなかったため、山肌を掘って通路を作っていたそうです。

終戦の8月15日は夏休み中でしたが、学校で育てていた野菜の水やり当番があり、喜栄さんは学校へ。廊下には地域住民や島守小学校を拠点にしていた日本兵が集まって姿勢を正していたので、それにならってラジオに耳を傾けたそうです。流れたのは昭和天皇が終戦を告げるお声。いわゆる玉音放送です。

参考/総務省HP「八戸市における戦災の状況(青森県)」

EPISODE 05

リンゴ・ドリーム

昭和40年代、リンゴは1箱1万円で売れたといいます。出荷の時期には寝る間も惜しんで一晩中働き、市場と作業小屋を3往復したこともあったとか。現在は青果・花きを扱う中央卸売市場が八戸市南東部にありますが、当時は八戸市中心街・廿六日町に市場がありました。

親戚や近所の仲間による農作業共同体「結っこ」が機能していた時期は、メンバーが各自50~60箱分ずつ持ちより、作業小屋でリンゴをランクごとに選別する選果と箱詰めを行いました。

「形、つらつき(顔つき)、大きさ、色で分けて、美人さんを並べていくのよ。A品・B品・C品とかって」(吉雄さん)

しかしそのうちに個人ブランドで売る人も出始め、箱にそれぞれの屋号が入った判を押して出荷したことも。誰々のリンゴが高値で売れたと、すぐに噂にのぼりました。

ちなみに選果に使われた作業小屋は、今回お話を聞いたまさにその場所。今もリンゴ箱を載せる台が残り、当時の活気をしのばせます。

トラック1台に50箱のリンゴを積んでいけば、翌日にはもう現金50万円に変身。リンゴの木は豊かさを運んでくる“金のなる木”でした。アメリカン・ドリームならぬ“頃巻沢リンゴ・ドリーム”がそこにはあったのです。

EPISODE 06

リンゴ・ドリーム再び?

「年末、出荷し終わって『さぁ終わった、正月だ!』って言って気づいたら、オラ3,000円しか持ってなかった(笑)」と弥千代さん。野菜であれば花の開花から2週間ほどで収穫できるものもあり、すぐに収入にできますが、リンゴは1年がかりの仕事。リンゴ農家ならではのお金の悩みがあるようです。

まず、コストの中心を占める薬代、肥料代の支払いが年末締めになっていること。それに対して現在の農協の仕組みでは、農家に現金収入が入るのは3月。各農家から集荷したリンゴを一同に集め、かつ売りきってしまわなければ精算できないためです。このタイムラグが、農協を主な出荷先とする頃巻沢リンゴ農家の年末の懐事情を厳しくしているのです。

そこで弥千代さんたちが向かうは産直。10~12月に収穫したリンゴを冷蔵保存し、3月まで販売して現金を稼ぎます。

「農協はみんな一緒にして売るけど、産直は生産者の名前を入れるから、各農家が頑張っていいリンゴを作れば、売上が上がる。ある意味、市場に出荷してた昔に戻ってるのかも」(弥千代さん)

「グリーンプラザなんごう」と「朝もやの館」、南郷の2つの産直は新鮮な農産物がお手頃価格で手に入るとあって、八戸市民にも観光客にも人気のスポット。産直は再び“頃巻沢リンゴ・ドリーム”を掴むための舞台かもしれません。 また4~8月のリンゴが品切れになる時期には、サクランボやブルーベリー、桃なども栽培・出荷します。

EPISODE 07

ゴテ様たち

83歳の喜栄さんの同級生の中で、高校に進学したのはたった1人。64歳の吉雄さんが青春時代を送った昭和40年代には約半数まで進学率が上がったそうです。とはいえ当時、中学卒業後の進路といえば東京への集団就職が主流。10人兄弟も珍しくはなく、どの家も家計に余裕がないため、“ゴデ様”と呼ばれる長男以外、家に残ることは許されません。“おんじ”、“おんず”、または“おんちゃま”と呼ばれる二男以降は早く家を出て自立することが望まれました。

4年前、亡き父の後を継ぎ農家になった弥千代さんにも、ほろ苦い思い出があります。

「子どもの頃、ジュースを分けるでしょ。すると一番多いのは『ゴデ(長男である弟)にやれ』って。ゴデには将来面倒を見てもらうからってサービスするのね。それがなんで今私が家を継いでるのか…。あのときのジュースもらっておけばよかった(笑)」

共防チームのほかのメンバーは揃ってゴデ様。確かに大事にはされたけれど、「べつに長男でなければ居たくもなかったんだ」と吉雄さんはちょっぴり嘆き節です。

EPISODE 08

男の結婚

「奥様と365日、24時間一緒なんだもの。あんな写真コ見れないんだものな、あっはっは」と笑う吉雄さん。“あんな写真”とは、壁に貼られたちょっとエッチなポスター。今どきなかなかお見かけしない大胆なポスターのおかげか、作業小屋はどことなく男子運動部の部室のような雰囲気。ここに集まって行う組合の仕事や寄り合いは主に男性の役割だったことがうかがえます。

「並んで仕事してればケンカになるでしょう。お互い見えない、聞こえないように仕事しないば(しないと)、一緒に暮らせない(笑)」 と吉雄さん。自営業ならではの夫婦円満術を教えてくれました。

そういえば1時間以上お喋りをしていても、奥様や家族の話はほとんど出ません。あらためて結婚や家庭について尋ねると、「オレじゃなく親が決めた結婚だからな」(喜栄さん)とあっさり。80代の喜栄さん、70代の護さんは自宅で。60代の吉雄さんの時代になると、八戸市内のホテルで結婚式を開いたそうですが、記憶にあるのはもっぱら、仲間が集まってお酒を飲んだことばかり。

特に自宅で式を挙げる場合、事前に集まって段取りを決め、料理の下ごしらえをし…と、今は専門業者に任せる仕事をすべてご近所さんにお願いすることになります。打ち合わせと称してご近所さんと集まって飲み、慰労会と称して飲み、打ち合わせと慰労会を兼ねて飲み…。気づけば1週間毎晩飲み会なんてこともあったそうです。

結婚式は本人だけでなく、地域にとっても一大イベント。女性は「どんなお婿さんがくるのか?」「どんなお料理が出るのか?」と結婚式そのものにフォーカスするのに対し、男性にとっては、厳しい仕事を忘れて大いに飲める貴重な機会だったのでした。

頃巻沢のリンゴ農家たち

頃巻沢りんご生産組合では共同防除組合、通称「共防(きょうぼう)」を組織して、りんごの「薬かけ」(薬剤散布)を行います。仕事が終わると共防メンバーは作業小屋に集まり、機械のメンテナンスや次回の打ち合わせをします。そんな時間におじゃまして、頃巻沢の物語を集めました。集まったのは長老から若手まで5人のリンゴ農家たち。

  • 岩織喜栄(84)

    岩織喜栄(84)

    昭和7年、頃巻沢生まれ。中学校卒業後、農業の道へ進む。この道半世紀以上の大ベテラン農家。

  • 岩織護(79)

    岩織護(79)

    昭和12年生まれ。頃巻沢出身。

  • 舘吉雄(64)

    舘吉雄(64)

    頃巻沢りんご生産組合組合長。昭和27年、頃巻沢生まれ。高校卒業後3年ほど関東で働いた後、帰郷して家業を継ぐ。

  • 犾守文宏(56)

    犾守文宏(56)

    昭和34年生まれの若手農家。頃巻沢生まれ。20歳から2年間、アメリカ・ワシントン州の農場で農業研修をした経験を持つ国際派。

  • 犾守弥千代(46)

    犾守弥千代(46)

    昭和46年、頃巻沢生まれ。メンバー中一番の若手&唯一の女性。亡くなった父に代わって11年ほど前からリンゴ栽培を手がけるようになる。今回のコーディネーター役。

※2016年、2017年の取材時の情報です。

なんごうの物語一覧へ戻る

もくじ