南郷アートプロジェクト2019|見つけに行こう、まだ知らない南郷を。

なんごうの物語

泥障作のものがたり

あまづくり

「泥障作」の「泥障」(あおり)は馬具の付属具で、馬が蹴(け)上げる泥を防ぐ道具。集落の人々がこの泥障を作って暮らしを立てていたことから地名になったという説もあります。山肌の崖地にへばりつき、段々畑のように家々が並ぶ、16世帯が暮らす小さな集落です。歴史は古く、この地で40代続く壬生さんのご先祖は京都からやってきた一族だそう。10数年かけてたどり着き、故郷の風景に似ていたことから定住を決めたと伝わっています。

EPISODE 01

あのときの赤ちゃんは

むかしむかし昭和の初め、泥障作に、島守からきたお嫁さんがおりました。

初めての子は里帰り出産、2人目以降は嫁ぎ先で出産が村のならわし。産婆さんを呼んで家で産むのです。

そのお嫁さんも1人目の子どもを授かり、お産が近づいたので実家への山道を歩きはじめる。と、いくらも進まないうちに産気づいてしまいました。そして、なんとそのまま、道ばたで赤ちゃんを生んだのです。付き添いの親戚は大慌て。息せき切って大きなたらいを手に入れてきます。実家はまだ遠かったため、たらいに母子を入れて泥障作の家まで運びました。

時は変わって平成の現代。泥障作れでぃーすは今日も井戸端会議。「山街道で赤ん坊が生まれてしまって…」淡々と話すシズエさんに、ミヤさんがぴしゃりとひとこと言いました。

「そりゃ、そのとき生まれたのはあんだ(あんた)だったべ!」

そんなことすっかり忘れていたシズエさん、思わず口あんぐり。一瞬の沈黙の後、一同は爆笑の渦に叩きこまれたのでした。

EPISODE 02

いわし大根、くるび味

ミヤさんいわく「いわし大根」は「くるび味がしておいしかったんだ」“くるび味”はくるみの風味のことではなく、くるみと同じくらい“最高においしい”という、ほめ言葉。

いわし大根はきれいに洗ったいわしの頭と内臓に塩を加え、大根を漬けたものです。発酵したいわしは魚醤のような旨味を発揮。大根がハムのように赤くなり味がしみ込んだ頃、焼いていただきます。秋に漬けてひと冬食べる、昭和初期の南郷の大事なタンパク源でした。

山間の集落である泥障作では終戦後、自転車から自動車と交通手段を変えながら、八戸から魚売りがやってきました。貴重な魚は干したり漬けたりと保存食に。いわし大根もその1つでした。

イカの塩辛も作っておいて、冬の間交互におかずにしました。大きめの千切りにした大根といわし、酒粕を混ぜて煮て食べる料理もあったとか。

また大晦日のごちそうは焼き魚の塩鮭。米のごはんは「年とり晩げ(大晦日)だけ」(ミヤさん)、「お正月1週間、小正月5日、2月年とり(旧正月)3日」(テルさん)と、各家庭で少しずつ違うものの、めったに食べられないごちそうでした。

EPISODE 03

豆しとぎのコツ

みんなが楽しみにしているおやつは「豆しとぎ」。大豆と米粉を使った郷土菓子で、今も道の駅などで買うことができますが、かつては各家庭の味がありました。中でもシズエさんは豆しとぎ作りの名人で、裕子さんいわく「他のは食べれなくなるほどおいしい」とか。今はシズエさんの息子さんのお嫁さんが、伝統の味を引き継いでいます。

電動の石臼で米を挽いて生の米粉を作り、すり潰した大豆、砂糖と混ぜて固めます。生の米粉を使うこと、大豆を固めに茹でてザックリと潰し、豆の食感を残すことが、噛めば噛むほど味わい深い豆しとぎを作るコツです。

EPISODE 04

テルさん思い出の味

テルさんの父は、集落の料理人。結婚式や葬式の料理を取り仕切り、食材や献立に詳しかったといいます。そのせいか、テルさんの食べものに関する記憶は鮮やか。少女時代の思い出の味は今も昨日のことのように覚えています。

たとえば「さつま揚げ」。出会いは偶然、春まだ浅い日、雪解けにぬかるむ道でトラックが立ち往生したことからでした。トラックがいったん荷降ろしし、車体を引き上げて走り去った後、残されたさつま揚げ1枚。見たことないけど、おいしそう。口に運んだ幼いテルさんに衝撃が走りました。「こった(こんな)にうまいもんが、世の中にあったべか!」

夏はリヤカーを引いて鈴を鳴らし、アイスキャンデー売りが村に来ます。『1日食べれば1週間おいしい』のキャッチコピーも、子ども心を惹きつけました。

大晦日のごちそうが鮭の焼き魚だった昭和10年代、アイスは憧れの的です。行商人は八戸から来て泥障作を通り、市野沢まで行って折り返す。父親は「市野沢からの帰りに買ってける(買ってあげる)」と言うけれど、その頃には溶けかかったものしか残っていない(だから安い)ことを、テルさんは知っていた。思い出の中、アイスはいつも溶けかけ、大急ぎで食べました。

村の相撲大会で初めて食べたにんじんとごぼうのかき揚げも、忘れがたい味です。「今でいうドーナツを食べたようなものだった」とか。

EPISODE 05

夏には蛍の光のように

泥障作はインフラ整備先進地域。昭和の初めには川の流れを利用した水力発電所を作って、住民当番制で管理していたのです。当番の仕事は夕方、発電所に行って通電のスイッチを入れ、朝になったら切ること。終わったら次の家に鍵を渡します。

シズエさんの父が「電気を引くために仙台やらどこやら、ずいぶん歩いたものだった」と話していたということから、先見の明と行動力を持ちあわせた先人に恵まれたようです。

ただその電気、川の水流で発電するため「夏になれば点かなくなってなぁ…。蛍のケッツ(尻)ぐらいにしか点かなかった(笑)。だからランプも用意しておいてな」(テルさん)

そんな泥障作にも、八戸の街から送電線で電気が送られる時代がきました。そのときにはこんなお話が。

「電気線さまたがって、ばさまが死んだべぇ」工事中に現場を通りかかったおばあさんが、電気線に触って亡くなったのでした。今は電気のパワーについて誰でも知っていますが、当時はほかの住民も驚き、印象に残る出来事だったようです。

EPISODE 06

モテる男はダンスが上手い

男女がダンスを楽しむ場として「クラブ」なんてものも今はありますが、泥障作では断然、盆踊り。お盆の3日間は盆踊り大会が開かれ、集落を越えて若者が集まりました。男性は黒っぽい浴衣、女性は白っぽい浴衣を身につけて踊る様子を審査員が評価し、『1位』『2位』と書いた札を背中に差していきます。入賞賞品は下駄など、なかなか豪華。

テルさんのお兄さんは踊りが上手く、目立ちたがり屋でもあったので、浴衣の裾や帯の端に鈴をつけて注目を集めていたとか。集落の友人同士でいつも「縄になって」(離れず一緒にいて)行動し、踊りは「ずるけた」(ひょうきんな)スタイル。気の合う者同士でつるんだり、人と違うことをして目立とうとしたり。ほほえましい若者の姿が浮かびます。ダンスが上手な男性は、今も昔もモテる。今ではさしづめEXILEといったところでしょうか?

ちなみにミヤさんは泥障作の隣の集落、頃巻沢の出身。娘時代にこの盆踊り大会に行き、未来のだんなさまの姿を見かけていたのだそうです。

「だんなさま、盆踊りは上手でしたか?」の質問には、「んー。まぁまぁだよったった(まぁまぁだったようだった)。へっへっへ(笑)」とのことでした。

EPISODE 07

仲介人にはご用心

昭和20~30年代、結婚式は集落挙げてのセレモニー。親戚・縁者が集まり花嫁の実家で行う「嫁やり」、嫁ぎ先で開く「嫁取り」、手伝いのスタッフをねぎらう会や、近所の若い衆を招待する「若い者ぶるまい」までありました。

トップを切る「嫁やり」は昼に始め、夕方には花嫁一行が婚家に出発します。花嫁、「もりあい(もらい)様」と呼ばれる婿側親族、荷物持ちの嫁側親族など、総勢5~7人で出かけます。荷物持ちは「嫁取り」に出て戻り、両親に嫁ぎ先の様子を伝えます。一度嫁げば簡単には連絡がつかなかった時代、娘の身を案じる両親にとって大事な情報でした。

なんといっても、当時の結婚は現代の感覚からするとかなりスリリング。結婚は親と仲人が相談して決めるのですが、仲人は口八丁です。

「紋付袴の若い者がいっぱいいて、最後に残ったいちばんめぐせぇ(醜い)のが婿だったって話もあるな(笑)」(ミヤさん)

「『蔵が3つもある家なんだって』って言われて行ったら、馬の鞍が3つ入り口に掛けてあったとか…(笑)」(悦子さん)

笑っちゃうけれど当事者には笑いごとではない、そんな話がいくつもあるのです。しかも、花嫁と花婿は結婚式が初対面というのがふつうでした。

EPISODE 08

嫁、乗り換える

昭和20~30年代にかけて。この10年で嫁入り事情は変わりました。1つは「お見合い」が登場したこと。結婚前に顔を確認でき、一応はお互いに相手を選択できるようになりました。とはいえ、お見合い結婚の裕子さんも一度目の見合い相手と結婚。テルさんの言う「『(実家の)敷居またぐな』って言われてたし、いわば「けられた」(あげられた)のだから戻られない」という感覚は、なかなか変わらなかったようです。

もう1つの変化は交通手段。ツノかくしに黒留袖姿の昭和20年代のお嫁さんは、もっぱら屋根つきの馬車で移動。「嫁ぁ来た、嫁ぁ来た」と寄ってくる沿道の人たちには、「どんべ」(ドブロク)をふるまいました。

当時の結婚式は、農閑期に行うことがほとんど。冬、しかも舗装されていない道路を正装で行くのは大変だったに違いありません。

そこで昭和30年代には、バスの時代がきました。

「バスが雪で走れないで、十文字の途中で止まったず(らしい)。嫁さんが来ないず(そうだ)」(ミヤさん)と、まだまだ苦労はあったようですが…。ふつうの路線バスにお嫁さんが乗り、周囲の人が見守る。ほのぼのとした光景が、かつての泥障作にはありました。

EPISODE 09

戦争と結婚

ミヤさんは21歳のとき、隣村の頃巻沢から泥障作に嫁入り。終戦後すぐのことでした。買い物は配給制、商店もほとんど休業。モノというモノが不足していました。嫁入り道具のたんすなどは八戸の街まで行かなければ手に入りませんでしたが、八戸も空襲で焼けています。

「おらほの親ぁ戦争から戻ってきたときは、藁草履とにんにくしか店屋になかったず(なかったそうだ)。戦地から小遣いっこ渡されて来て、何か食いたいと思ったったって、店に何もなかったと」(テルさん)

「餅にくるみをつけたかったら米持ってって、くるみをわんづか(少し)…。買ったって言ったらいいか、もらったって言ったらいいか…」(ミヤさん)

くるみ餅を食べたければ米を持って行き、物々交換。そんな状況下でも結婚式だけはきちんと挙げさせてやろうと、集落の人々は助け合います。シズエさんのおばは、三戸町で教師を務めた後実家に戻ってきていました。紋付の留袖を持っていて着付けも上手だったので、結婚式にはみんながそれを着まわしました。見聞が広くしっかり者のシズエさんのおばさんは、泥障作の中でなにかと頼りにされる存在だったそうです。

そして、礼服の原料は絹。裕子さん夫婦が今も住む壬生家本家には、“とーどっこ”(かいこ)の部屋が今も残ります。自宅で蚕から糸を取り、織物を織って着物を作っていたのです。

EPISODE 10

おしんも真っ青、嫁の暮らし

家族の誰より早く起き、誰より働き、誰より少なく食べ、誰より遅く寝る。そんなお嫁さんたちにとって、息抜きは「秋どまり」と「春どまり」。農作業がひと段落した時季に許される里帰りです。春どまりは20日、秋どまりは「あきしんがい」と決まっていました。「しんがい」は「~放題」のような意味。「あきしんがい」とは「秋の間中」、それに「飽きるまで」という意味もかかったダブルミーニングです。

テルさんによると、「実家さ行く坂を下がれば、気持ちがギターッとなる。実家から帰って坂を上がれば、ギツーッとなるよった」。“ギターッと”は安堵を、“ギツーッと”は締めつけられるような苦しさを表現しています。

農家には日曜日もGWもなし。里帰り以外は毎日働きづめで、子育ても丁寧にはできません。食事は授乳をしながら。朝は赤ん坊を押さえつけ、動けないよう縄で縛ってエンツコ(子どもを入れる籠)に入れて畑に出ます。エンツコの外には竈や農具など危険がいっぱい。危険を避けるためには縛るしかないのです。

昼食に戻るとおしめは重く湿り、泣き疲れた赤ん坊は汗だく。中には縄が首に絡まったり、熱中症で命を落とした赤ちゃんもいました。

「…喋ればほんになんねぇ(本当にあったこととは思われない)。おしんどころでないんだ。今ドラマさやればいいドラマができるなぁ(笑)」とミヤさん。どんな辛い経験も笑い飛ばす強さは、厳しい生活を乗り越えてきたからこそ、です。

EPISODE 11

男の仕事、女の仕事

おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に。桃太郎の一節にあるように、山へ分け入って薪を取り、選り分けるのは男性の仕事です。暖房のほか日々の炊事でも使うため、薪は常にいっぱいに積んでおかなければ安心できません。農閑期は縄や草履など藁仕事も。冬の間に1年分作って溜めておきます。

一方、女性は家事・育児。薪で火をおこし、料理は限られた食材で一から手づくりです。粉ミルクも紙おむつもなく、産着を縫い、文字通り川で洗濯をする。泥障作れでぃーすが経験した昭和20~30年代の育児は、現代からは想像もつかないほどハードです。床に敷いたり炭を包んだりと重宝するむしろを編むのも、女性の大事な仕事でした。

そして男女とも力を尽くすのは、田んぼや畑の仕事。現金収入を得る生活の柱です。第一線を退いたお年寄りが子育てを手伝い、田畑の作業を少しでも進められるように協力しあっていました。

EPISODE 12

手作りお棺でお見送り

人生の総決算、お葬式。集落中が一丸となってはたらくハンドメイドの葬儀で、泥障作の人々は旅立ちます。昭和30年代頃は近所の男衆が集まり、お棺から作るのが一般的。女性はサラシの布を引っ張り合って縫い、主役の衣装作り。若者は墓穴掘りと埋葬後の墓番。子どもたちが野辺送りで撒く紙吹雪を作る頃、男たちはお棺作りに着手します。

「四方棺」は下に2本の棒を渡して4人で担ぐお棺で、運ぶ姿はお神輿行列に似て、ちょっとお祭りのよう。立方体なので、死後硬直が始まる前に遺体を正座させて安置します。

「早く膝折らせねぇば、骨ぁ固くなって動かなくなる」(テルさん)

葬儀料理は集落内の料理自慢が担当します。材料の手配、メニュー決めなど采配を振るい、女性たちが手伝って準備します。

葬儀会場はもちろん自宅。お坊さんが呼ばれ、読経するのは今と同じです。祭壇はシンプルで、階段状になった祭壇、通称「ガンギ台」の前に四方棺を置き、摘んできた花を飾るというもの。棺の周りに巻いたサラシの布に家族・縁者が掴まり墓所まで運びました。

これだけのことをやり遂げるためのタイムリミットは3日。土葬するため、死後3日目には埋葬が鉄則でした。

泥障作れでぃーす

集落の人々が協力して建てた壬生昭二さん、シズエさんご夫婦の家。ひと抱えもある大黒柱にお仏壇、客間には地域の日本画家に描いてもらったという虎の襖が印象的です。ここに集まってきたのは、泥障作に生まれ育った、または嫁いできた4人の女性たち。名付けて「泥障作れでぃーす」。南部弁の通訳兼コーディネーターとして、れでぃーすの1人、大久保テルさんの娘、悦子さん(最年少60代!)も加わりました。

  • 見付ミヤ(89)

    見付ミヤ(89)

    大正15年生まれ。隣の集落である頃巻沢出身で、戦後間もなく泥障作に嫁入り。お喋りが大好き。今年夫の27周忌を迎えた。

  • 中村シズエ(87)

    中村シズエ(87)

    昭和3年生まれ。泥障作の古舘家出身。母が島守の出身で、よくお使いに出ていたことが少女時代の楽しい思い出。

  • 大久保テル(83)

    大久保テル(83)

    昭和7年生まれ。19歳で泥障作の壬生家から八戸市糠塚に嫁入り。娘夫婦・孫娘2人・ひ孫2人と暮らしながら現役で農業にいそしむ。座右の銘は「米が固かったら噛めばいい」

  • 壬生裕子(79)

    壬生裕子(79)

    昭和12年生まれ。階上町の旧家から泥障作の壬生家に嫁入り。以来、泥障作の総本家である壬生家を切り盛り。

  • 大久保悦子(63)

    大久保悦子(63)

    テルさんのひとり娘。母の実家である泥障作で生まれる。臨床検査技師として病院勤務のち定年退職し、今はテルさんや娘、孫たち7人家族の主婦。ディープすぎる方言の通訳兼コーディネーター。

※2016年、2017年の取材時の情報です。

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