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南郷アートプロジェクト|なんごうをあつめる。

物語をあつめる。

STORY07:田代のものがたり

田代とは?

青森県八戸市と岩手県久慈市を結ぶ、全長約80キロの久慈街道。 江戸時代、八戸藩の重要な街道の一つで、この道を通って八戸港に運ばれた雑穀や木材などが、さらに船で江戸や大坂などの都市に輸送されました。 現在の青森県道・岩手県道11号八戸大野線が、その一部にあたります。 田代は、この久慈街道沿いに発達した集落。 三戸郡階上町や岩手県の軽米町と接し、交流も自然に行われ、これらの地域から田代に嫁入りした人も多々。 開けているのは道だけではないようで、取材に応じてくれた方々もオープンマインド。笑いが絶えない時間でした。

もくじ

episode01

忘れられた花嫁

「何で嫁に来ましたか?」 お嫁ーズにこの質問をすれば、年齢がだいたい分かります。

たとえば、ある80代後半のご婦人の答えは「馬車」。新婦は黒い留袖姿、馬にはガランゴロンと派手に鳴る鈴をつけ、通りを行けば注目の的。2台、3台と連ねた馬車に嫁入り道具を積み込んで、両親が一世一代の覚悟で買った長持(衣類を納めるための大きな箱)、箪笥がひときわ目につきます。

長持ちや箪笥を嫁入り道具とするのは、現在の80代ぐらいまでは田代の、そしておそらく南郷全体でも一般的な風習で、お嫁―ズメンバーも所有している人が多数。しかしその後、和服から洋服になるなど生活習慣が変化する中で、めっきり出番がなくなってしまったとか。漆塗りの立派な箪笥を「薪代わりにして蕗でも煮ようかな」と話す人も…。なんとももったいない話です。

一方、70歳前後ともなるとぐっと現代風に。嫁入り時には「タクシーでお迎えに来てもらったわよ」とのこと。しかしなぜか「夜中の12時に」って、一体何があった!?

なんと、新郎側の関係者を集めて行われる”嫁取りの宴会”で仲人さんが酔っぱらい、肝心のお嫁さんを迎えに行き忘れるというアンビリーバブルなミス! しかも「嫁は宴会のお膳に手をつけるものではない」と親に言い含められていたものだから、この花嫁さんは式の間中、飲まず食わずで過ごしたそう。

最初は付け下げ、次は留袖、さらに普段着…とお色直しをしてきれいに着飾っても、かわるがわる襲い来る空腹&眠気と戦っていては、「ずーっとにっかみ面(仏頂面)だった」と当時を振り返るのも当然です。宴会は夜通し行われ、空が白む頃、ようやくお開きとなったのでした。

忘れられた花嫁

episode02

ウェディング絶賛ロングラン中

お嫁ーズの娘時代、結婚は親同士や仲人さんが決めるもの。お見合いの席すらなく、「式当日に初めて顔を合わせた」というケースは珍しくありませんでした。地域を挙げてのビッグイベントである結婚式では、出席者がここぞとばかり飲めや歌えや。新郎・新婦が誰かなど、分からなくなってしまうほどに。

あるご婦人などは、式の最中に叔母さんに「どの人がだんなさんだ?」と聞かれても、「うーん、オラ分からねぇ…」

そのまま宴席は終了し、翌朝。親戚を送り出し、水をくもうと庭に降りていくと、前掛けをかけた若者が一人、井戸端に立っています。誰だろう?

首をかしげていると声をかけられ、そこで初めて若者が昨夜、結婚式を挙げた相手であることが判明しました。

「じゃあ、結婚式の晩は一緒の部屋にいないの?」と村松さんが鋭い質問を投げかけると、「いきなりダブルベッドで寝るなんて、あんただけだと思うよ(笑)!」とお嫁ーズ。

というのも当時、結婚式当夜は夫婦別室がならわし。花嫁は実家から来た親戚と同じ部屋で休むことになっていたそう。翌日は夫婦揃って新妻の実家へ出向き、今度は妻方の関係者と顔合わせ。ここでもまた一席設けます。夫婦の親戚も帯同して、一行はあちらで宴会し、こちらで一杯飲み、と行ったり来たり。数日かけて往復し、落ち着いたところでやっと本格的な新婚生活が始まります。

このロングランな宴会の風習、「結婚は家同士の結びつきだから交流を深めないと」というのもあるでしょうが…。「結婚をダシに、できるだけ長く宴会を楽しみたかった大人たちの作戦ではないか!?」という見方も、あながち外れじゃないかも?

ウェディング絶賛ロングラン中

episode03

引き出し妻

深い井戸の底から水をくみ上げるには、36回、「つるべ」を引き上げなければなりません。当時の農村では曲がり家に農耕馬と暮らしていたから、つるべは一般的なものの倍の大きがありました。小柄な体でつるべを引きずるようにして、やっとのことで水を運びます。近くに川があり、水に不自由しない集落から嫁いだ身では、井戸の水くみはことさらに堪えたと、お嫁ーズの一人は話します。

「出はったり入ったり、私は引き出しよった(引き出しみたい)嫁だった」

きつい仕事と慣れない人間関係に何度も何度も泣いて、飛び出して実家に帰ったのも1度ではありませんでした。夜、明かりのない県道を歩いて実家まで戻ったといいます。

「普通の人だったら暗くて怖いんだろうけど、そんな時は『もうどうとでもなれ』と思ってるから何にも怖くなかった」

実家に着いたのは夜9時。今ではさほど遅い時間ともいえませんが、昭和30~40年代の感覚からすると深夜です。こっそり押し入れから布団を出して寝ていると、翌朝、家人が発見して仰天。昨夜は何も食べていないと知るや、慌ててごはんを食べさせてくれました。

「もう絶対に戻らない!」と頑張っても、実家の両親に説得されては戻らざるを得ません。

「『今1回、もう1回だけいて、それでダメだったら戻って来ていいから』って、父親の『今だけ』に負けたのよ」

「田代さけねば(嫁にやらなければ)良かったかなぁ。あれさへっちょはかせるな(苦労をかけるな)」と、父が案じていたことも、父が亡くなった後で初めて、母から聞かされました。けれど嫁いで半世紀が経った今では、それもこれも「笑い話よ」 互いの苦労をねぎらい合うように、みんな目を見合わせて笑います。

逆境は、立ち向かうばかりが能じゃない。すべてを受け容れ、辛抱強く歩を進める。そんな強さもあるのだと、お嫁ーズが教えてくれました。

引き出し妻

episode04

田植え今昔

昭和50年代前半、田代を含む八戸地方の田植えは人の力で行われていました。苗の感覚を一定にするため、田んぼに目印をつける農具「型っこ」が農家の必需品。これは3列に渡した角材の四隅を金具で留めた、長方形の木枠のようなものです。枠の中には、竹またはそろばん珠で作ったコブのようなものが20センチ前後(6寸5分~7寸)の間隔で並んでいて、これが苗を植える目印になります。

手順はこう。まず型付け係が型を田んぼに置き、印をつけたら手前に引っ張る。すると、四隅についた金具を支点にしてパタンと倒れる。これを繰り返して、田んぼの奥から手前へガイドをつけます。その後、苗かごを腰につけた田植え係がいよいよ植え付け。一度に10人ぐらい並んで型付け、植え付けをしていきます。

機械化された現在からすると、気が遠くなるような手間ひま! なるべく早く作業を終えるためには、人手と熟練の技が必要です。だから田代のような農村では、親戚やご近所さんと「結(ゆい)っこ」と呼ばれる互助会を結成して、持ち回りで田植えや稲刈りを行いました。

ここでも大活躍なのが女性たち。多い時には25人分にもなる食事の支度は嫁の仕事です。朝食は各家で済ませてくるとして、10時のおやつ・昼食・3時のおやつ・夕食の計4食を出さなくてはなりません。お餅、お赤飯など、おやつまで手作りするのが大変だったと、村松さんは振り返ります。

田んぼの作業が終わっても嫁の仕事は終わらない。夕食後すぐ翌日の仕込みです。夜9時頃から餅つきをしても翌朝3~4時には起床と、眠る暇もない忙しさ。

田植えはその後、さまざまな変化をたどります。外側を多角形にして回転しやすくした改良版の型や、円形にした自在型付機が登場したり、植え縄を使って型を付ける方法が広まったり。腰につけた苗かごから苗を取り出していたのが、20センチくらいの木船を作って苗を運ぶ船植えも出てきました。植え付け方法も、植える間隔を従来より10センチくらい広げた(9寸~1尺)「並木植え」が定着し、その後の機械化の時代を迎えました。

田植え今昔

田代お嫁ーズ

集落の中心に学校がある地域は珍しくないけれど、田代小中学校はちょっと変わっていました。 「八戸市階上町田代小学校中学校組合立」。 八戸市南郷と三戸郡階上町、2つの行政区にまたがっているからこその運営方法です。 平成29年3月、同校が惜しまれつつ閉校した後でも、すぐそばに建つ田代農村婦人の家には地域のご婦人たちが集まり、お喋りや食事を楽しんでいます。 そんなご婦人たちを名付けて、「田代お嫁ーズ」。 取材におじゃました日は20人ほどのご婦人から、わいわい自由にお話をしていただきました。誰かと会う、話す、笑う。 シンプルだけど、やっぱりこれが大事だよね、人生!

成田清一さん(85)

「みんなの広場」の皆さん

70歳から80代後半まで、田代地区のご婦人が集まる高齢者サロン「みんなの広場」。月に一度、婦人の家に集まり、食事やレクリエーションなどでひとときを過ごす。画像の一番右下が、今回のコーディネーター役の村松静子さん。八戸市内から田代に嫁いで、はや40年。お惣菜から生活用品まで揃う雑貨店「ファミリーストアむらまつ」を家族で経営するかたわら、「みんなの広場」世話役を務めている。

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