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南郷アートプロジェクト|なんごうをあつめる。

物語をあつめる。

STORY04:世増のものがたり

世増とは?

島守盆地の南端から、新井田川に沿って2キロほどの山間部に、世増地区があります。 南側には畑内地区。あわせて50戸ほどの家に、約200人が暮らしていました。 南郷の他の地区と同様に、葉たばこの栽培など農業をなりわいとし、ヤマメやイワナなど、川魚の恵みもありました。 そして、地域の大きな転換点となったのが、ダムの建設です。 農業者を悩ませてきた新田川の氾濫や水不足を防ぐこと。 加えて人口増に応えるため、水道水を確保する必要にも迫られていた八戸市では、当時の南郷村にダムを建設。 それが世増ダムであり、またの名を「青葉湖」といいます。

参考:
一般財団法人日本ダム協会運営サイト「ダム便覧」http://damnet.or.jp/Dambinran/binran/TopIndex.html
八戸市南郷歴史民俗資料館http://www.hachinohe.ed.jp/haku/nango/

もくじ

episode01

「まんまけぇ」まであと何分

80代の3人の娘時代、女性の結婚平均年齢は20歳。ヤスエさん、タカエさん、セツさんの3人も当時の農村の慣習に従い、親の言う相手のもとへ嫁ぎました。いずこの農村も同じでしょうが、やはり世増でも嫁の地位は低く、「馬・べこ(牛)をあずかって(食べさせて)働いてればいいだけ」(ヤスエさん)の存在。朝は3時半に起き、馬車に乗って移動。畑や田んぼの草刈りを終えて帰宅したら、やっと朝ごはんです。夜は晩ごはん後にもそば、稗、豆などを打つ(つぶす)仕事などがありました。

嫁は夫とともに外で農作業、しゅうと・姑は炊事や育児など家の中の仕事をするのが当時は一般的。食事の支度をしない代わり、朝も夜も、しゅうとの「まんまけぇ」(ご飯食べろ)の一声が聞こえるまで家に入ることができませんでした。意地悪なしゅうとであれば、いつまでも声をかけなかった…なんてこともありそうですね。

セツさんのお孫さんは、「おばあちゃんがいつも『朝、けぇ』と言うから」と、セツさんの口癖から取って、生まれたばかりの子猫に“ケイ”と名付けました。今ではすっかり大人の猫になったケイちゃんですが、「ほら、けぇ」(ほら、食べなさい)なんて会話が交わされるたびに、律儀に寄ってくるのだとか。

「まんまけぇ」まであと何分

episode02

机担いで山の学校へ

昭和9年に世増・七枚田・西地区の子どもたちが通う島守小学校の分校が設立され、昭和26年には増田小として独立。同じく中学校は22年に島守中学校増田分教場として開学し、昭和29年に増田中となりました。

1つの校舎に小学校と中学校が入った増田小中学校は、平成15年に廃校となりましたが、2年後の平成17年、残された木造校舎を使って山の楽校がスタートを切った…というのが、現在までの世増の学校事情。子どもたちは毎日、「山の学校」と呼ばれていた崖の上にある学校を目指して上り、ふもとの家に帰りました。だから、「登校は行き40分、帰り5分」。岩崎さんが増田小中の校長を務めた平成9~11年でもその通学事情は変わらなかったそうですが、昔は草履や下駄をはいての登下校。途中で緒が切れれば、舗装されていないけもの道をはだしで歩くことさえありました。

遡ってタカエさん10代の初め。まだ分教場がなく、島守中へ進学。しかし雪に閉ざされる冬には通学ができなくなるため、冬支度が始まる11月頃になると増田小に机と椅子を生徒が背負って運び、雪解けの3月までそこに先生が通ってくるというスタイルをとっていました。

山の楽校の昇降口前には今も、おなじみ二宮金次郎像があります。薪を背負って歩く道々にさえ学問に励む、苦学と成功の象徴のような金次郎像ですが、かつての世増の子どもたちだって負けてはいません。自分が勉強するための机を担いで学校へ通った人なんて、そうはいませんからね。

机担いで山の学校へ

episode03

ヘンゼル、松明をお忘れなく

平成28年、ユネスコ無形文化遺産登録を果たした八戸三社大祭。豪華絢爛な山車が練り歩く青森県南を代表するお祭りは、もちろん80代トリオの少女時代にだってありました。現在は7月31日の前夜祭から始まりますが、昭和30年代は9月1日からの開催。

タカエさんは、歩いて祭りを見に行ったことがあるといいます。八戸へ行くには、頃巻沢地区から現在の国道340号、通称“上り街道(※)”を通るルートが一般的。往復36㎞ほど、6~7時間歩くことになるのですが、この道のりを小学校に上がる頃には歩き通していたというから立派。タカエさんの場合は八戸にいとこの家があり、1泊2日の旅程だったので、つかのま農作業を離れられる小旅行といったところでしょうか。

しかし、泊まるあてがない人が祭り見物に行くには、日帰りしかありません。帰りは必ず夜になるわけなので、松明を用意して出かけたそうです。松明なんて長時間もつものでもありませんから、何本も用意しなければならない。そこで編み出されたのが、朝、八戸に向かうとき、街道の各ポイントに松明をセットしておくという方法。こうしておけば帰り道に松明が切れたときも安心です。ときには別の誰かが「ちょっと拝借」とばかり使うこともあったかもしれませんが…。道に松明を置きながら祭りに向かう人々は、パンくずを目印に森を歩いたヘンゼルとグレーテルにも似ています。

※上り街道:八戸市中心部から南郷地区を通り、岩手県二戸市まで続く街道。江戸時代、八戸藩からの参勤交代に使われていたので、江戸へ向かう道ということで「上り街道」と呼ばれた。

ヘンゼル、松明をお忘れなく

episode04

漬物名人ヤスエさん

ここでヤスエさんのビール漬けのレシピを少々。いたってシンプルです。

【 材料 】
大根10㎏
ビール大瓶1本
粉からし(辛めがおすすめ)70g
塩300g
酢500㎖
ざらめ糖1袋(1㎏)

【 作り方 】

  1. 大根以外の材料を混ぜる。
  2. 桶に皮をむいた大根の1/3くらいを入れて、①の調味液をかけ回す。
  3. 大根がすべて桶に入るよう②の手順を2~3回繰り返し、残った調味液を上からすべてかける。
  4. しっかりと重しをする。

ポイントは「1回で水がかつがないと(材料が全て調味液に浸らないと)うまくならない。今日漬けたら明日は水がかつぐようにビンッと重しをかける」だそう。水がかついだら重しを重いものから軽い重しにしておき、20日くらいで食べられます。

「この人のビール漬けを食べたら、よそのはちょっと食えないよ」と岩崎元楽校長が言えば、「おらも聞いてやってみたけど、いったい(決して)同じ味にならないよ」とタカエさんが首をひねる。ヤスエさんは、世増が誇る漬物名人です。大根が穫れる11月頃に漬け、5月頃まで食べられるとか。長期保存も魅力のビール漬け、家族や知り合いにあげるために作っているもので、非売品というのがなんとも残念!

漬物名人ヤスエさん

世増80代3人娘

山の楽校に集まったのは、世増・畑内で育ったタカエさん・ヤスエさんと、少し離れた不習(ならわず)地区からお嫁にきたセツさんの、80代3人娘。 ダム建設でもともとあった集落が水の底に沈み、それを機にふるさとを離れる人も少なくはなかったけれど、3人はこの地に根を張り、たばこ栽培などをして暮らしてきました。 ダムは平成16年完成。平清盛の息子・重盛が対立する父から逃れてこの地にたどり着き、そのとき手にしていたのが「青葉の笛」――という平家の落人伝説から「青葉湖」の愛称もつきました。 現在、四季の風景が楽しめるドライブスポットや、ウォークラリーの開催地として市民に親しまれている青葉湖を、3人娘はどんな目で見つめるのでしょうか。

世増タカエさん(85)

世増タカエさん(85)

昭和7年生まれ。世増本家に生まれ、長女だったために婿をとった生粋の“世増っ子”。今回の最年長。世増ダム建設にともない、平成2年に山裾の旧世増集落から移転。

世増ヤスエさん(80)

世増ヤスエさん(80)

昭和12年生まれ。世増のお隣、畑内地区の出身で、世増家の分家にお嫁にきた。世増ダム建設にともない、平成2年に山裾の旧世増集落から移転。漬物名人としてご近所に名をはせる。

犾舘セツさん(82)

犾舘セツさん(82)

昭和10年生まれ。不習(ならわず)地区出身、七枚田(しちまいだ)地区在住。3人の中で唯一、現在もたばこ農家を続けている。

岩崎光宏さん(73)

岩崎光宏さん(73)

昭和19年生まれ。38年間の中学教師生活の中で、増田小中学校の校長も務めていたことから、平成17年に青葉湖展望交流施設・山の楽校(がっこう)の“楽校長”に就任。29年3月、13年間の楽校長生活にピリオドを打ち相談役に。在職中は、今では山の楽校名物となったヒマワリ畑を始めるなど活躍。

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