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南郷アートプロジェクト|なんごうをあつめる。

物語をあつめる。

STORY03:クジラの村のものがたり

クジラの村?

かつて、「クジラの村」と呼ばれた旧南郷村。村の多くの若者たちが、南極大陸を囲む南氷洋での捕鯨に従事し始めたのは、日本の漁業が沖合から遠洋へと進出していった昭和12年のことでした。初めは7人だったものが、そのまじめな働きぶりが雇用主の信頼を得て規模が拡大。戦後のピーク時には、三八地区一帯で七百数十人が遠洋漁業へ繰り出し、彼らが村に持ち帰った収入は5億円ともいわれます。南郷市野沢にある『大洋公園』は当時、日本三大捕鯨会社の1つといわれた大洋漁業(現・マルハニチロ)に所属して捕鯨の出稼ぎをした人々によって、昭和34年に造られました。

もくじ

episode05

探鯨から加工まで

捕鯨船(キャッチャー・ボート)の舳先に装備された捕鯨砲から火薬の力で発射される銛は、鯨に当たると衝撃のあまり曲がります。石屋さんは捕鯨船団の鍛冶屋さん。銛の修理をはじめ、船団のさまざまな金属製品を修理、加工するのが仕事でした。

実際に当時使われた捕鯨砲を見てみると、小型の大砲といった様子。“銛”というと鋭く尖ったものを想像しますが、先端は直径10㎝程度の円筒状です。これには理由があり、「尖ってると、刺さるときに曲がるから」。

捕鯨の手順はこうです。

まず綿密な調査をもとに探鯨船が船団を漁場へ導き、その後キャッチャー・ボートが漁に入ります。ターゲットを見つけると船は全速力前進で追尾。人間と鯨との根比べが始まります。

追尾はチームワークが大事。捕鯨砲を打ち込む砲手以外はサポートに回ります。狙うは背中から腰にかけて。斜め後ろから近づき、カタカナの『イ』の字の角度で狙います。射程距離は30~50m。このとき銛の先が尖っていると摩擦が少なすぎ、海面や鯨の身体の上で滑って狙いがずれる場合がある。そこであえて先端を丸くし、当たりやすくします。根元には釣針でいう「返し」にあたる鉤が付き、命中すると鉤が押し出されて簡単に外れないようになっています。

捕獲後は鯨を母船まで引いていき、甲板で解剖・処理。甲板がいっぱいの場合は船尾に係留します。解剖用ワイヤーが縦横に張られた甲板の上で、夜を徹して交替で処理。肉は冷凍や塩蔵処理をほどこして冷蔵庫で保存し、皮や骨は鯨油の原料に。巨大な身体は余すところなく使われました。

捕鯨に使われた銛の実物は、「道の駅なんごう」で見ることができます。

探鯨から加工まで

episode06

楽しい赤道祭り

南氷洋捕鯨船団最大のイベント「赤道祭」。その名の通り、赤道を通過するときに開催します。まず着飾った“海の神”(に扮した乗組員)が船長に赤道通過を許可する鍵を、船団長には大漁を約束する銛を授ける儀式を行います。メイン会場の母船は長さ100m以上、幅25m以上と巨大。儀式のほか運動会、野球・相撲大会、仮装行列や演芸会、映画鑑賞会などを開くことができました。

祭りに必要な道具はほとんど乗組員の手作りです。キャンバスを丸く切り抜き砂を入れて縫ったボールに、ノコギリ挽きした資材に大工がカンナがけして丸く仕上げたバット、ペンキで彩色した化粧まわしなど、本物さながらの力作が揃いました。

「資材のバットは本物より柔らかくて、すぐ折れる。みんなが騒いでいるとき、俺たちはバット作りで忙しくて!」と製材を担当していた高畑さん。

話し合いでオリジナルのルールも決めます。野球では天井にシートを張って、シートの継ぎ目を越えてボールが海に入ったらホームラン、などなど。

出身地別・役職別のチーム対抗で競う熱戦は、スカウト合戦も熾烈。野球は岩手県勢が、相撲は青森県と秋田県出身者が強かったそうです。キャリアの長い乗組員は試合巧者。相撲では波の揺れを利用し、小さな力で上手に投げることができたので、番付が上だったそう。力では若者が有利ですが、海上では経験がものを言ったようです。

赤道祭で優秀な成績を収めたり特技を認められた人は上司の覚えもめでたく、出世につながることもあったとか。祭りは大漁・安全祈願や息抜きの意味もありますが、乗組員どうしが打ち解け、団結力を強めるきっかけとしても機能しました。

楽しい赤道祭り

episode07

憧れのジョニ黒

ジョニーウォーカーブラックラベル、通称「ジョニ黒」。今は大衆ウイスキーですが昭和30年代は、漁船の出稼ぎを引退後、郵便局員となっていた古舘さんの月給7,000円に対し、1本8,000円。空き瓶さえ2,000~3,000円で取り引きされたそう。

そんな高級品も遠洋漁業船では海外で安く買えたので、南郷の男たちもこぞって持ち帰りました。国内持ち込みは1回2本まで。しかし男たちは税関の目を逃れるため、あの手この手です。岸壁で荷役(船荷のあげおろし)をしているとき、モッコ(積み下ろしに使う網)の中に紛れさせて隠す。いったん封を切れば“飲み残し”扱いで制限本数にカウントされないのを利用して2本だけ残し、残りのボトルはすべて蓋を開けて持ち込む…。3人も持ち帰りこっそり飲むつもりが、「親父に全部飲まれた(涙)」(古舘さん)、「うちは娘が(笑)」(石屋さん)と苦笑い。高畑さんだけは当時の超ビンテージものが自宅にあるそうで、それを聞くや「死ぬ前に一緒に飲むべし!」と、誓い合ったおじさんたちです。

ほかにもマグロ漁船では一斗缶にマグロを詰めたものを家族に持ち帰ったり、捕鯨船では会社側が持ち帰り用の鯨肉を用意したので、塩漬けをカマス(藁袋)に入れてお土産にしました。

器用な人は象牙より固いマッコウクジラの歯や骨をグラインダーやノコギリ、ヤスリで加工し、南氷洋で見かけたペンギンの彫刻や印鑑、刀やステッキなどを作ってお土産に。高畑さん作のパイプは、島守にある「山の楽校」に収められています。

一方、マグロ独航船の乗組員には宝石商から現金を預かり、海外で安く宝石を買いつけてこっそりと秘密のお土産にする者も。手指に宝石を挟んだり、靴下の中に隠したり、中には飲みこんで身体検査をパスした人もいたとか…。

憧れのジョニ黒

episode08

漁船のグルメ

船上生活の一番のお楽しみは、おいしいごはん。きつい労働と長い航海のストレスを癒すのに、食事は大切でした。船には本格的な厨房設備が整い、専属の料理人もスタンバイ。お正月にはお餅やタイのお頭つきが出るなど、陸にいるのと同じか、さらに豪華なくらいだったとか。

そして捕鯨船では鯨肉が、マグロ船ではマグロが食べ放題! 山間出身の南郷の男たち、新鮮な魚介はさぞ嬉しいものかと思いきや…。

「1週間も連続して食べると、もう見たくない(笑)。だから同じマグロでもスキヤキにしたりさ。色々と手を替え、品を替えてなんとか食べる」と古舘さん。

捕鯨船が南氷洋なのに対し、マグロ漁船は南太平洋が漁場。フィジー共和国に寄港したときには当時、南郷では珍しかったバナナを買ってデザートにしていました。1ポンドでバナナを1茎分(10~15房)買えたので、青いまま買って部屋にぶら下げ、熟すのを待ちます。いざ熟してみんなで食べ始めると「最初はいいけど、途中でボロボロ落ちてくるんだよね。一気に熟すから食い間に合わない」と結局、こちらも食べきれなかったようですが。

一方、鯨肉が「一番うまいのは腐る寸前だね」と、うっとりと言いきるのは捕鯨船経験豊富な高畑さん&石屋さん。熟成したものを切ると、内側は美しい桜色。柔らかな食感が後を引き、いくらでも食べられたと目を細めます。中でも希少な部位が「尾羽(おば)」肉。尾に近い部分の背肉で脂肪と筋肉のバランスがよく、霜降りでトロリととろけるような食感。加工時も他の部位と分けて保管され、首都圏の高級料理店に卸されるので、庶民の口にはまず入らない・・・とか。そんな尾羽肉が食べられるのも、捕鯨船員ならではのことでした。

漁船のグルメ

episode09

かかぁでないば治せない

「5ヶ月も6ヶ月も船に乗ってて、女の人が誰もいないところにいるでしょう。帰ってきて出迎えの人を見ると、そりゃあきれいに見えるんだ。ばぁさまでもな(笑)」と高畑さん。

『港々に女あり』は古い映画のタイトルですが、海の男の恋は“肉食系”? 中締め船(航海の途中で資材を追加する船)が運んでくる手紙を、乗組員は楽しみにしていました。返事は手紙1通につき便箋5枚までという規則。

「一番面白いのが、ラブレターを書いて交換することだな」懐かしそうに石屋さんは言います。独身時代、気になる女性から届く手紙を開封するのは、心ときめく瞬間。

「手紙書いてよ、便箋さ口紅つけてくるのがいるんだ。でも、そういうの見たことない人は、自分のかかぁにも『キスマークついた便箋買え』って言うんだ。奥様んど(奥さまたち)はそういう出来合いの商品を売ってる店があるかと見て歩くけども、ないわけだ。自分でつけるしかないんだけどね(笑)」 独身乗組員たちの中には寄港地でのロマンスの末、そのまま住みつく人もいました。

しかし甘いときめきがある一方で、長い航海の間には、心身の調子を崩す人も出てきます。家族と離れナーバスになっているところを悪い仲間がからかって、ノイローゼに罹る例もあったとか。母船にはドクターが乗りくみ治療しますが、完治は難しかったそうです。

ところが。「船が戻って、家族が迎えに来てるべ? それを見た途端ケロッと治るんだものな。やっぱりノイローゼっていうのは、家族のことを考えてなる。かかぁでないば治せない」(高畑さん)。

家族のぬくもりが、一番の特効薬なのでした。

かかぁでないば治せない
※参考資料
日本水産経済新聞社刊『南氷洋のおじさんたち』/大洋漁業株式会社捕鯨部刊『南氷洋だより』

仕事も遊びもゴーカイだ!大海原を駆け抜けたおじさんたち

日本から7,000マイル(約11,265km)。北半球から赤道の島々を経てオーストラリア、ニュージーランドを越え、南緯70度まで行くと南極大陸があります。大陸を取り巻く海が捕鯨の舞台「南氷洋」(なんぴょうよう)。昭和30年代当時、最新型の船なら20日程度で到着したそうです。南郷公民館に集まったのは、昭和30年代に遠洋漁業の出稼ぎを経験した3人です。「あと10年早かったら先輩たちもいっぱいいたのに!」と悔しがりながら、当時の写真を前にすると大盛り上がり。全員が“おじいさん”というよりお茶目な“おじさん”と呼びたい方々なのでした。(参考:『南氷洋のおじさんたち』/日本水産経済新聞社刊)

高畑幸一さん(86)

高畑幸一さん(86)

昭和6年生まれ。島守十文字地区出身・在住。今回の最年長。20代前半から捕鯨に従事。東京オリンピックの翌年、昭和40年の操業を最後に船を降り、30代にして本業の製材で起業。

石屋正美さん(81)

石屋正美さん(81)

昭和11年生まれ。中野・下洗(しもあらい)地区出身・在住。鍛冶屋の特殊技能を武器に18歳から捕鯨船に乗り、54歳で引退するまでにマグロ船などさまざまな漁業を数多く経験。

古舘良策さん(77)

古舘良策さん(77)

昭和15年生まれ。市野沢・黒坂地区出身・在住。捕鯨船乗り組み経験はないが、19歳でマグロ母船に乗り組み、船上で20歳のバースデーを迎えた思い出あり。その後、郵便局員に転身。

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